三国志に釣られクマー

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皇甫嵩(こうほすう) 字:義真(?~195)その2

さて、今回は皇甫嵩の二回目じゃな。今回は皇甫嵩の黄巾以降の事跡の紹介と、もし可能なら能力評価まで行きたいのう。

 

さて、皇甫嵩の紹介、2回目じゃな。

どうも、張郃だ。皇甫嵩殿の光と陰、いや闇か、が見れると言うことだな。 

闇って物騒な話ですね。

いやいや、胡母斑とかに比べたら可愛いもんじゃよ。さて文字数の関係もあるから早速紹介に行こうかのう。

よろしくお願いします。

人物紹介

逆転劇

さて、黄巾賊の包囲を受け、劣勢にさらされた皇甫嵩じゃが、彼は動揺する部下に、「戦い方には正道と奇道がある。兵の多い少ないは関係ない。今、賊軍は草原に布陣して営所を作っている。風が吹けば、火を放ちやすい。夜陰に紛れて火を放ち、敵陣を焼けば賊兵は大いに驚乱するであろう。」

こうして夜陰、風が強くなるのを確認すると皇甫嵩は火計を実行し、成功させるんじゃ。これにより出撃した皇甫嵩は黄巾賊の首領の波才を退け、丁度郡を立てなおしてきた朱儁、そして新たに援護に来た曹操と共に波才の軍を追撃し、この軍を撃滅させるんじゃ。

陸遜などもそうだが、火計をうまく活用できる武将は手ごわい。きちんと風や地形などを把握していなければ、下手をすれば自分が焼かれるだけだからな。 

たしかにそうじゃな。そして皇甫嵩の活躍はまだまだ続くんじゃ。

さて、潁川郡の黄巾賊を撃退後、汝南、陳国も平定した後、皇甫嵩朱儁と別れ、軍を北上させ東郡に入り、その地の首領の卜己(ぼくき)も破り、捕虜にするんじゃ。

更にこの活躍を受けて、朝廷から張角を討て、との命令を受けるんじゃよ。

天公将軍、張角とは

さて、ここでちょっと張角について簡単な説明を入れるとしようかのう。

張角は自らを天公将軍と称し、全土の黄巾賊を統括しておったんじゃが、元々は黄巾が宗教集団であったころの教祖であったんじゃ。

本拠地は冀州の鉅鹿にあり、当初は盧植が対峙して張角を追い詰めておったんじゃが、宦官の讒言によって職務を解かれてしまったんじゃ。

相も変わらずの所業だな。曹丕殿は宦官の位階が一定以上には上がらないように法令を制定しておったが、それができない漢と蜀が腐っていったのは必然であるな。

さて、当初盧植の代わりに張角軍に当たったのは董卓だったんじゃ。じゃが董卓はまるで勝てない。いや、もしかしたら勝つ気がなかったのかもしれんのう。

たしかに演義と違い、董卓には賢しい部分がある。兵力温存のためにまともに戦っていなかった可能性はあるな。官職が落ちようが彼の率いる軍は、簡単には取り上げられんからな。

人公将軍、張梁との戦い

さて、皇甫嵩は軍と共に河水を越え、まっすぐ北上するんじゃ。

すると広宗県に到ったところで黄巾賊の大軍が陣を敷いて待ち構えていたんじゃ。率いるのは張角の弟、人公将軍の張梁じゃな。

さすがにこの軍は強く、皇甫嵩も押しきれずに膠着状態に陥ったんじゃな。

このままでは埒があかない、と判断した皇甫嵩は一旦兵士を休息させることとしたんじゃよ。ずっと戦い詰めだった皇甫嵩軍にとっては英気を養うために必要な休養となるじゃろう。

と、敵は判断し、これに合わせて黄巾賊も攻撃をやめて休養に入ったんじゃ。

しかしこれが皇甫嵩の罠だったんじゃな。

敵陣に緩みがある、と判断した皇甫嵩は夜中に音を立てずに兵を整えておいたんじゃ。そしてそろそろ夜が明けるか、と言うタイミングで敵陣に突撃をかけるんじゃ。

もっとも黄巾賊もある程度、この襲撃を予想したのか、必死に抵抗をつづけたんじゃ。戦いは日が高くなり、更に傾くところまで続き、ついに黄巾賊にほころびが見えだしたんじゃ。

自身たちの優勢を感じ取った皇甫嵩軍は更に必死に敵陣を攻め、ついに乱戦の中で張梁を斬り、黄巾賊を大破することに成功するんじゃ。この時挙げた首級が3万、河に逃げて亡くなった人間が5万と言うからすさまじいものじゃ。

多少数字に誇張はあるだろうが、それでも8万と言う数字は簡単には出てこないであろう。黄巾賊は家族ぐるみでの移動が多かったから、捕虜にした数まで合わせると、どれほどの数か。

鉅鹿への進軍、そして

さて、この勝利にも当然、皇甫嵩は慢心することなく、鉅鹿へ向かって進軍を開始するんじゃ、しかし・・・。

前途に黄巾賊がおらん、もちろん張角の姿も見当たらん。

そこで捕虜を使って尋問すると「張角は既に病死した。」と言う情報が上がってきたんじゃ。そこで皇甫嵩張角の柩を暴き、首を斬って洛陽へ送るんじゃ。

これにより、ほぼ黄巾の乱は収束に向かった、と言って良いじゃろうな。

じゃが、まだ残党は残っておる。一番の大物は張角の弟、地公将軍の張宝で、この時は鉅鹿郡の北の要衝に立てこもっておったんじゃ。

皇甫嵩はこの軍も攻め、何と10万以上の首級を挙げ、勝利を収めたんじゃ。

当然、張宝もこの戦いの最中に戦死しており、皇甫嵩黄巾の乱の現況であった張三兄弟を打倒したこととなるんじゃ。

これがどれだけ評価されたのか、単純にこの時皇甫嵩が受けた食邑が8,000戸であった、と聞けば何となくその凄さが分かるじゃろうか。

おれが馬謖を破って魏国の危機を救った時が1000戸の加増、合計でもまだ4300戸だからな。国の規模の違いなどもあるが、これは下手したら一刻を滅ぼすぐらいの功績に匹敵するのではないかな。

そうじゃな、しかも霊帝はこの報を受けると大赦を行い、12月と年の背の迫った時期に元号を光和7年から中平元年へと改元してしまうんじゃ。

代替わりや、何らかの慶事がないとめったなことでは改元されない、それだけの出来事であった、と言うことだな。

皇甫嵩に対する甘い罠

さて、これだけの威光を天下に鳴り響かせておると、それに対し良からぬたくらみをする人間が出てくる。

何と言っても「殿(皇甫嵩)の威光は海外にまで聞こえ渡っております。これがために将軍を慕って多くの英雄達は首を向け、民衆は爪先立っているのです。

殷の湯王や周の武王の行動であっても、将軍のそれより秀でているとは申せません。

身は人に勝る功績を樹立しながら、北面して凡庸な君主に仕えておられるようでは、またどうして身の安泰を図ることができましょうぞ。」と進言しちゃう人が出てきちゃうぐらいじゃからな。

これは暗に皇帝になれ、と言っているようなものだな。

これは幾らなんでも調子に乗りすぎじゃな、一体誰がそんな甘言をしたんじゃろうなあ(すっとぼけ)。

ちなみにこれを進言したのは閻忠だったりするんじゃよ、あの賈詡の才能を最初に見出した人物じゃな。

じゃが皇甫嵩は全く聞き入れなかったことから、このままだと不敬罪で罰せられかねないことから、閻忠は逃亡するんじゃよ。

これは皇甫嵩の美徳でもあろうが、逆に自らに野心がないことを示したことから、乱世における存在感を希薄なものとさせてしまったかもしれんのう。

さて、だいぶ文字数も使ってしまったから、今回はここまでじゃな。やはり二回では終わらんかったか・・・。

 

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