三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

皇甫嵩(こうほすう) 字:義真(?~195)その3

さて、いよいよ、皇甫嵩の紹介、三回目じゃな。なんだかんだで長くなったのう。今回から、いよいよあの、魔王との関わりとなるんじゃ。今回で終わりとなるかのう。

 

さて、皇甫嵩の紹介3回目じゃな。

どうも、張郃だ。いよいよここからは董卓との絡みが増えてくるのだな。並の神経ではヤツの相手は務まらんであろうな。 

それにしても黄巾賊相手の活躍すさまじかったんですね。

そうじゃな。演義じゃと結局皇甫嵩殿と朱儁殿の活躍は皆曹操孫堅劉備らに持っていかれる格好になってしまっておるからのう。

特定の人物を持ち上げるために他を矮小化させる。まああまり主役級の人物が多くなると分かりにくいのは確かですが・・・。

まあそれが小説など創作物の限界でもあるからのう。さて、さっそく続きの紹介と行こうかの。

人物紹介

辺章・韓遂の反乱

さて、これは185年(中平2年)、黄巾の乱の後に涼州で辺章と韓遂の反乱が起こるんじゃ。朝廷の命令で皇甫嵩長安に駐屯し、董卓と共に事に当たることとなったんじゃ。

ちなみに皇甫嵩は上表して武将の派遣を要請しておったんじゃ。

そこで召し寄せられたのが陶謙で、彼は揚武都尉に任じられ、皇甫嵩と共に西羌を討伐し、散々にこれを撃ち破るんじゃよ。

じゃがこの時期、皇甫嵩と宦官との間に軋轢が生じ、宦官の讒言により、将軍号と食邑6000戸を取り上げられてしまうんじゃ。

どうせいつもの賄賂の要求とかであろう。権力欲と金銭欲に捕らわれえた人間がやることはいつの時代になっても変わらんな。 

そうじゃな、欲に取り付かれた連中の性根の問題であって、宦官かどうかはあまり関係はないじゃろうな。現代だってそれ目的の政治家(せいじかではなく、せいじや)はいくらでもいるからのう。

さて、その後は張温が反乱討伐の任を受けたようじゃが、あまりうまくはいかんかったようじゃな。そして丁度この頃、孫堅がその豪胆さから、董卓に警戒されるようになった時期でもあるぞい。

董卓との確執?

さて、年は少し進み188年(中平5年)、今度は賊将の一人王国と言う人物が兵を挙げ、渭水北の陳倉を攻めて包囲したんじゃ。

ここで皇甫嵩が討伐の任を受けるんじゃが、ここで董卓と共に賊に当たることとなるんじゃ。董卓は急いで救援に向かうべき、と進言するが、皇甫嵩は首を縦に振らん。董卓

「急いで陳倉を救わねば、城は陥落してしまう。」

と言うと、皇甫嵩は百戦百勝は善の善なるに非ざなるなり、戦わずして人の兵を屈するのは善の善なる者なり、と孫子の言葉を紡ぎ、その意図を示すのじゃ。いわく

「陳倉は小さな城であるが、城の守りは堅固である。王国では陳倉を落とすことはできない。」

そして次のように言うんじゃ

勝つべからざるは我にあり(不敗の要因はこちらにある)

勝つべきは彼にあり(必勝の要因は王国が握っている)

彼は守るに足らず(王国はこちらの攻撃を防ぐ兵力を持っていない)

我は攻めるに余裕あり(こちらは兵力に余裕がある)

兵力的にはこちらが主導権を握っており、陳倉が簡単に落ちることはないのだから、相手に合わせて慌てて動く必要はない。相手が疲弊するのを待ち、必勝の体制を作ってから攻めれば良い、との考えだな。

そして、実際王国は陳倉を落とせず、退却するんじゃ。これを皇甫嵩は追撃するんじゃが、この時董卓はそれを反対するんじゃな。丁度張郃殿が諸葛亮率いる蜀軍が退却するのを司馬懿が追撃しようとした時に思わぬ逆劇の恐れがあるから追わない方が良い、と言ったのと同じようにじゃな。

あの時とは状況が違うであろう、同じ退却でもあの時の蜀軍は余力を残していた。疲弊している王国軍とは違う。同じように見える場面でも、経過状況や兵の状態、指揮官の力量など一つとして同じ場面は無い。なれば場面ごとに対応は違って当然であろう。

結果は皇甫嵩の読み通り、疲弊した相手を大破することに成功するんじゃ

董卓との因縁

この前後、軍を私物化する董卓を危険視したのか、『霊帝紀』によると188年(中平5年)、扶風に駐屯していた董卓を召し出して小府とし、屯営の軍官と兵士を左将軍の皇甫嵩に預け、行在所に出頭せよと命じるんじゃ。

更に189年(同6年)、董卓を幷州牧に任命し、また軍官と兵士を皇甫嵩に預けよと勅命があったんじゃ。

じゃがどちらも董卓は言を左右にして勅命に逆らうんじゃ。

『山陽公載記』によると董卓が前将軍、皇甫嵩が左将軍だったんじゃが、互いに下風に立とうとはしなかったんじゃよ。

皇甫嵩自身が軍を取り上げようとした訳ではないじゃろうが、董卓皇甫嵩に対し、悪感情を抱いたであろうな。

実際にその後、政権を掌握した董卓皇甫嵩を召喚する。皇甫嵩も都に行けばどうなるかは分かっていただろうが、あえて逃げずに向かい、逮捕され投獄されてしまう。

董卓皇甫嵩を処刑しようと思ったが、皇甫嵩の息子の皇甫堅寿が必死に諌言し、また諸将も皇甫嵩の助命を嘆願するので、ついに董卓もこれを許すんじゃ。

皇甫堅寿は董卓と仲が良かったらしい。それが皇甫嵩の命をつないだことになったな。

董卓との和解?

皇甫嵩は御史中丞となり、董卓に車の下で拝礼したんじゃ。

董卓皇甫嵩「義真、まいったか?」と問うと、皇甫嵩「どうして殿がこれほどまでになられると、思い及んだことでしょう。」と答えたんじゃ。

董卓「鴻鵠(大きな鳥)には本来遠大な志がある。ただ燕や雀には分からないだけだ。」と言うと、皇甫嵩「昔は殿と共に鴻鵠でしたが、今日になって殿が鳳凰に変身なさるとは予測もしなかっただけです。」と答えるんじゃ。

董卓は笑って「卿がもっと早く頭を下げていたら、今日拝礼しないですんだものを。」と言ったんじゃ。

これには異説があって、張璠の『漢紀』によるんじゃ。

董卓は手を打って皇甫嵩に向かって言ったんじゃ。「義真、怖くないかね。」皇甫嵩は答えて「殿はおん徳によって朝廷を補佐なされ、大いなる喜びが訪れようとしておりますのに、何を怖がることがありましょう。もし刑罰を乱用して権力を振り回すならば、天下の人々は皆おびえるでしょう。何も私一人に限ったことではありません。」

と言ったんじゃ。董卓は沈黙し、かくて皇甫嵩と和解するんじゃ。

どちらかと言えば後者の方がありそうな話だがな。

前者はまんま『史記』における陳渉の台詞じゃからなあ。如何にも創作臭い感じに仕上げている印象じゃな。董卓死後、太尉にのぼったが195年、皇甫嵩は亡くなるんじゃ。

さて、これにて皇甫嵩の紹介は終わりじゃな。続けて能力評価に行くぞい。今回は全作品に出ておるぞい。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 皇甫嵩(20歳)  100 120 125 80
 ↓ ↓ ↓  ↓↓ ↓↓↓ ↓↓↓ ↓↓
 皇甫嵩(45歳)  134 156 161 112

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皇甫嵩は軍事面においてはほぼ欠点のない評価じゃな。政治も冀州の統治で実績を残しておる。

じゃが政治的大望がなかったことで後の苦境に陥った、とも言える。政治家としても優秀だったと思うが、良い意味で戦バカだった、と言うことで政治は少し抑えたんじゃ。

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 皇甫嵩  90 61 73 51 75

 

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 皇甫嵩  9 13 9 4 3 9

 

鄭問三國志(Max.30)
   武勇   統率   知謀   政治   健康 
 皇甫嵩  14 24 16 11 13

 

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雑談ぢゃ

さて、皇甫嵩の能力評価じゃな。

ふむ、政治が低いのと統率が高いのは皆共通していると言うことだな。  

ただ、知力、知謀がそこまででもありませんね。

演義ベースの限界であろうな。敵陣のゆるみや疲弊度合いを見極められる、と言うのは相当兵法を読んでいるだけでは分からん領域じゃからな。 

曹操殿同様、実の場面で使いこなせる。頭でっかちのやつらはそれが分からんのだよ。 

そうじゃな。さて、これにて皇甫嵩の紹介は終わりじゃ。面白かったと思えば、次もよろしく頼むぞい。

よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。  

張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。