さて、今回紹介するのは黄琬じゃな。字は子琰、生年は141年、没年は192年じゃな。江夏郡安陸の人じゃな。董卓暗殺に協力し、最後は李傕たちに殺害された人物じゃよ。
さて、今回紹介する人物は黄琬じゃな。
どうも、張郃だ。彼も後漢を代表する名士の一人じゃな。丁度曹丞相殿より一回り程年上なのだな。
黄琬さんはあまり知らないですね。
まあ彼も王允と同様、董卓の下でのエピソードぐらいしか知られておらんじゃろうからな。正史でもそれぐらいの情報しか載っておらん。
黄巾の乱以前の情報は三国志時代の情報とはあまり繋がらないですからしょうがないですね。
うむ、なので今回は『3pedia』から、若い時分の情報を入手させてもらったぞい。さて、さっそく紹介と行こうかの。
人物紹介
若き日の黄琬
黄琬は若くして父を亡くし、祖父の黄瓊に育てられたんじゃ。幼少より聡明で、祖父の黄瓊が147年の正月に日蝕を目撃したんじゃ。そのことを聞いた太后に欠け具合がどれほどかと下問された時、どうこたえるべきか思案している黄瓊に「三日月ほどです、とお答えしないのですか?」とすらすらと答えるんじゃ。
黄瓊は非常に驚き、その言葉通りに言上し、黄琬を深く愛した、とあるんじゃ。
7歳にして状況を把握し、正確に受け答えができるとは大したものだな。
後に黄瓊が司徒になると童子郎を拝命したが、病気を理由に就任しなかったんじゃ。この頃司空の盛允が病を患っていたので、黄瓊の代わりに黄琬が見舞いに行ったんじゃ。
おりしも江夏郡から蛮族の反乱についての報告が届けられており、報告書を読み終わると盛允は「江夏は蛮民が多く、士人が少ないんだなあ。」とからかうんじゃな。
それに対して黄琬はすぐに「蛮民が反乱を起こすことに関しては、司空殿の責任ですぞ。」と鮮やかに切り返して、張允を感心させるんじゃ。
この辺りの切り返しのうまさはちょっと孔融のエピソードを彷彿とさせるのう。才能の高さを示す話じゃな。
黄琬の人間関係
蜀志の『来敏伝』を見ると、来敏の姉の夫が黄琬だ、と言うことらしいんじゃ。来敏の父は司空にまで登っており、しかも黄琬は劉璋の祖母の甥でもあった、と言うことから皇族である劉氏との縁も深いようじゃな。、
また交州の名族士燮の弟の士壱を黄琬は厚く礼遇したが『呉書』によると、董卓と黄琬がいがみ合った時、士壱は心を込めて黄琬のために働いた、とあるんじゃ。
皇族と姻戚関係にあり、妻の一族との繋がりも考慮すると相当な名族と言うことだな。
曹操との因縁?
そんな、黄琬じゃが、少々剣呑な話があるんじゃ。
『魏書』によると曹操が義兵を起こした時のことじゃが、曹真の父の曹邵は仲間を募り、曹操に従って活躍していたんじゃが、当時の豫州刺史であった黄琬が曹操を殺害しようとしたんじゃ。曹操は難を逃れるんじゃが、曹邵は殺害されてしまうんじゃよ。
ふむ、それが本当だとすると、黄琬は董卓に与する側の人間だと言うが、本当の話なのか?
いや、おそらくこの辺りは真実ではないじゃろうな。時期的に曹操が反董卓連合軍の兵を起こした時期、黄琬は既に中央に召喚されており、この時期予州にいるはずがなく、曹操の命を狙うこともできんはずじゃからのう。魏略の内容ともまるで違うしのう。
豫州刺史の誰かが曹操暗殺を計画していたのを、刺史になったことがある黄琬と混同しただけのようだな。
豫州牧の時代は州境を荒らす盗賊共を攻撃して撃破し、州内に安定をもたらすなど、政治だけでなく軍事面でも実績を残すんじゃよ。
董卓との因縁
『続漢書』によると、太尉の黄琬、司徒の楊彪、司空の荀爽じゃ一緒に董卓の元を訪れるんじゃ。
董卓は「昔、高祖は関中に都を置かれ、11代の後に(後漢が)中興されると、光武帝は洛陽に都を改めた。光武帝から現代までまた11代である。『石苞室讖』(神秘的預言書)を調べると、再び都を長安へ戻すのが適当である。」と言ったんじゃ。
楊彪がこれに対して「現在聖徳の主を立て、漢王朝を隆盛に導く時に当たりまして、訳もなく宮殿や宗廟を捨て去り、御陵を見捨てたならば、おそらく民衆は驚愕して、騒動を引き起こす結果を招くでしょう。『石苞室讖』は怪しげな書物だから信用できませぬ。」と反論すると董卓は激しく怒り、「楊公は国家の計画を阻止するのか。関東は今まさに乱れ、いたる所で賊が蜂起している。
長安の東の崤山、函谷関は険しく堅固で国家の重要な防禦線である。さらに隴右の山地から材木を取り出すのも難しい仕事ではない。杜陵の終南山のふもとには、孝武帝の昔のかまどもあり、瓦を作るのにも一日で事足りる。宮殿や官庁など問題にするほどのことはない。民衆のことなぞ、議論するに値しようか。もしもうろうろどっちつかずの態度をとる者がいたらわしが大軍をもって駆り立ててやる。自分勝手な真似なぞさせるものか。」
と言うんじゃ。黄琬は董卓を諫めて「これは重大事であります。楊公の言葉を重ねてお考えなさいますよう。」と言うんじゃ。
董卓は退席すると司隷に命じて、その日の内に楊彪と黄琬を上奏させ免官にしたんじゃよ。
じゃがさすがの董卓もこの二人が名族であることからか、命は取らず、後に黄琬は司隷校尉に任じられるんじゃ。
そして王允と共に董卓暗殺計画を立て、これに成功するも李傕・郭汜等に攻められると黄琬は捕えられ、獄死したんじゃ。
本人も覚悟はしていたのであろうが、残念な結果であるな。
そうじゃな、さて、これにて黄琬の紹介は終わりじゃな。続けて能力評価に行くぞい。今回は鄭問さん以外に出ておるぞい。
能力評価
黄琬は豫州においては軍事も政治も優れた実績を残し、特に治績は天下の模範となる、とまで言われたことから政治の評価を高くしたんじゃ。
じゃが、宮廷内の豪族や名族などの権力者におもねらなかったことから。二十年以上出仕できなかったことから知謀は少し抑え目じゃな。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい
雑談ぢゃ
さて、黄琬の能力評価じゃな。
ふむ、政治が高いのは皆共通しているが他の能力で作品ごとに少し違うようだな。
コーエーさんも天舞さんも統率、采配が低く、ですがコーエーさんは代わりに知力が高いですね。
三国志の史料だけでは、そうなるのもやむをえんじゃろうな。
そろそろ後漢書の購入を考えたらどうだ。
たしかに真剣に考えんといかんかのう。さて、これにて黄琬の紹介は終わりじゃな。面白かったと思えば、次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。