さて、今回紹介する人物は崔烈じゃな。銅臭で有名な人物であり、諸葛亮の友人、崔州平の父親でもある人物じゃ。字は威考、生年は不明、没年は192年じゃ。
さて、今回紹介する人物は崔烈じゃな。
どうも、張郃だ。銅臭の言葉で有名になった人物だな。もっとも当時はそれが当たり前の世であったから、彼のみそれが言われるのも少し可哀そうではあるがな。
そう言えば曹操のお父さんも官位を買ったのでしたよね。
そうじゃな、曹操の父親もそうじゃし、たまに出てくる張温と言う人物も優秀な人物だったと言うんじゃが、彼や段熲も官位を買っておるんじゃよ。
あら、段熲さんもそうなんですね、これは少し意外でした。
うむ、なので彼の人物像のみ矮小化されているのは、少々不幸な話かと思うんじゃのう。
人物紹介
さて、崔烈じゃが、銅臭の一件で評判を大きく落としているが、そもそもそれまで要職で実績を残し、高い名声を持っていたからこそ、の批判でもある訳じゃな。
これはあれだな、普段悪いことばかりやっている人間がたまに善行を見せると過剰に持ち上げられることの逆の状態だな。
とは言え、信用を失うのは一瞬じゃからな、本人にしてみればそう言う評価を受けるのは不本意であるかもしれんがのう。
『傅子』によると、崔烈は北部の州で高い評判を挙げておった、とあり、他のいずれも含めて一代の名士であったが、それでもやはり金によって位を買い取ってしまった、とあるんじゃ。そんな崔烈に対して息子の崔鈞(崔均)が銅臭といって批判したんじゃな。既に崔鈞らの紹介は行っているのでそちらを参照してくだされ。
そんな崔烈じゃが彼が胆力を見せた場面が一ヶ所あるんじゃ。袁紹達が宦官を皆殺しにし、状況が落ち着いた後のことじゃ。
『英雄記』によると、公卿百官が一時避難していた奥底たちを迎え、御所への帰途で、元太尉の崔烈が先導を務めるんじゃが、ここで歩兵、騎兵合わせて数千の兵を率いた董卓の軍とはちあうんじゃ、董卓軍は恐らく無礼な態度をとっていたのであろうが、ここで崔烈はひかえよと叱責するんじゃ。
じゃが、逆に董卓は崔烈を罵倒し、帝に目通りしたんじゃよ。
董卓ぐらいになると並の叱責では動じることもない。恐ろしい奴だ。
そしてここから、崔烈には逆転の目も亡くなるんじゃ。
彼の息子、崔鈞は董卓の専横に憤り、袁紹らと共に反董卓連合軍に参加してしまう。それがために崔烈は獄に繋がれてしまうんじゃ。
董卓自身は崔烈を処刑せず、後に許され、城門校尉となったようじゃが、李傕達が長安に攻め込んだ時に、王允らと共に崔烈も殺害されてしまうんじゃ。
官位を買った時から崔烈の運命は大きく暗転してしまった、と言うことかもしれないな。
そうじゃな、さて、これにて崔烈の紹介は終わりじゃな。続けて能力評価に行くぞい。今回は天舞さんのみに出ておるぞい。
能力評価
崔烈は北方の州で高い実績を残したと言うことから、政治を高めの評価としておるんじゃ。
じゃが、それ以外には目立つ実績がないことから、全体的には抑えめの評価とさせていただいたんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、崔烈の能力評価じゃな。
ふむ、政治力が高いのはさすがだな。
天舞さんも知謀が少し低く、政治が高めなのは同じですね。
まあこの辺りは、具体的な実績がない以上は仕方ないであろうな。
名士にとって息苦しい時代であったのだな。
そうじゃな、崔烈はそれを身をもって表した人物であったと言えるじゃろうな。さて、これにて崔烈の紹介は終わりじゃな。面白かったと思えば、次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。