さて、今回紹介する人物は周奐じゃな。字や生年は不明。じゃが没年は192年と分かっておる。王允と一緒に行動して、と言うことはもう状況はお分かりであろうかのう。
さて、今回紹介するのは周奐じゃな、さすがに知らん人が多いじゃろうな。
どうも、張郃だ。周奐殿とはまた渋いところを突いてきたようだな。
同時代人から見ても結構マイナーと言うことでしょうか。
もちろん、名前は通っているが、王允殿や士孫瑞殿ほど、具体的なことをやっている訳ではないからな。もし生き延びることができれば、と言う気がしなくもないがな。
そうじゃな。史書でも載っている場所はわずかのようじゃからな。
なかなか手厳しいですね。
じゃが、それでも普通の人がなれる立場ではないからな、さて、それでは見ていくとしようかの。
人物紹介
さて、周奐の出番は極僅かで、魏書『董卓伝』の注釈、張璠の『漢紀』のところじゃ。これは先に紹介した王頎とほぼ同じじゃな。
呂布が李傕や郭汜と戦うも敗れると、王允の下に向かい「公、行きましょう。」と脱出を訴えるんじゃ。じゃが王允は
「国家を安定させるのが、ワシの最大の願いである。もしそれが叶わぬのなら、好みを捧げて死ぬまでだ。朝廷や幼いご主君はわしだけを頼りにしておられるのだ。
危難を前にしてかりにも逃げるなぞ、わしはやらない。
どうか、関東の諸侯によろしく伝え、国家を忘れぬように言ってくれ。」
と留まるんじゃ。この辺りも王頎のところと内容が同じじゃな
そして李傕と郭汜が長安に入城してくると、そこからは酷い状況じゃった。彼らは南宮の掖門に駐屯すると、次々と高位高官を殺害していく。
そしてその中に大鴻臚の周奐も含まれていたんじゃ。
大鴻臚とは周辺異民族を管轄し、諸王が朝貢してきた時や交渉時の儀礼を司る役割だ。異民族たちからあらぬ怨みを買っていた、と言うことはないであろうがな。
儀礼などの知識を持っていると言う人物と言うのは貴重じゃからな。戦乱が続けばこういうある種の伝統は失われて行ってしまう。
さて、これにて周奐の人物紹介は終わりじゃな。続けて能力評価に行くぞい。今回はワシのみの評価じゃな。
能力評価
さて、周奐じゃが儀礼用の知識等を持っておったであろうことから、政治能力は高めじゃな。
じゃが李傕等に抵抗できずに殺害されたらしきことにより、軍事面は低い評価とさせてもらったんじゃ。
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雑談ぢゃ
さて、周奐の能力評価じゃな。
ふむ、儀礼などに通暁していることから政治能力が高めと言うことなのだな。
ただ実績は見えてこないことから、全体的にはやや抑えめな評価なのですね。
そうじゃな。周氏と言うと周瑜が思い出されるし、当時の周氏は呉方面に人材が集中しておったからもしかしたら、と言う気もするが、周瑜以外にも同姓の氏族はあるし、正直どの系統かは分からんのう。
その辺りの繋がりが分かるともう少し面白くなりそうだな。
そうじゃな。さて、これにて周奐の紹介は終わりじゃ。面白かったと思えば、次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。