さて、今回紹介する人物は鄭泰じゃな。字や生没年は正確なところは不明じゃが、李傕達から逃れ、袁術から揚州刺史に任命されたがその途上41歳で死去した、とあるので、152年頃の生まれと思われるんじゃ。
さて、今回紹介するのは鄭泰じゃな、彼のことも知らん人は多いじゃろうかのう。
どうも、張郃だ。鄭泰殿は確か・・・鄭渾殿の兄ではなかったか。
演義しか見ていないとどちらも分からないですね。
ふむ、なかなか優れた名臣であったが、分からんか、仕方のない話だな。
まあ鄭渾は地方の名臣じゃからのう。演義じゃと彼のようなタイプの人物は、呉蜀との戦績に絡みがなければ、出番がほとんどないことも多いからのう。
隠れた名臣と言うことですね。
そういうことじゃな、さて、それでは早速見ていくとしようかの。
人物紹介
鄭泰の慧眼
さて、鄭泰の情報のほとんどは『鄭渾伝』のところに載っておるんじゃ。裴松之注釈で張璠の『漢紀』のによると、鄭泰は字を公業と言い、若い頃から才能知略があり、はかりごとに長けていた、とあるんじゃ。鄭泰は世の情勢から天下が混乱するであろうと判断し、ひそかに豪傑たちと付き合っておったんじゃ。
家は財産豊かで四百頃ほどの田地があったと言うんじゃ。
さて、それほどの資産家であった鄭泰であるが、それでも世の豪傑らとの付き合いのため、食料はいつも不足していた、とあるんじゃ。ただし、彼の名声は中原の東部、山東方面に聞こえ渡っておったようじゃがな。
相当な資産家であり、少々変人でもあるな、この辺りは魯粛にも通じるところがありそうだ。
こういう型破りの人物でなければ、逆に世の混乱を収束させるのはなかなか難しいかもしれんのう。
何進の下にて
さて、その後孝廉に推挙され、三公や宮中から召されたがいずれも応じなかったんじゃが、何進が名士を召し出して起用した時はこれに応えたんじゃ。鄭泰は尚書侍郎し、奉射都尉の官を加えるんじゃ。
丁度この頃、何進は宦官を処刑しようとし、董卓を召し出して助力させようとしたんじゃ。鄭泰は董卓の危険性を見抜き、以下のように進言するんじゃ。
「董卓は残忍で道義心に乏しく、あくなき欲求を持っております。もし彼に(宦官殺害の)大事を任せますれば、その心のままにふるまい、朝廷を危険に陥れましょう。明公のご威光ご恩徳の上に、宰相の重責を占めておられますからには、心を固めて一人で決断し、罪ある者を処罰し除いてください。
実際、董卓の到来を待って後立てとすることはありません。それに事態が引き延ばされると異変が起こるものです。その手本は近くにございます。」
また当時の要務について進言したが、何進は採用しなかったんじゃ。そこで彼は官を捨てて去ったんじゃ。
潁川の荀攸と会うと彼に「何公を補佐するのは大変ですな。」と話したそうじゃ。
ここで荀攸殿が出てくる辺り、ネットワークの広さが伺えるな。
鄭兄弟は河南の出身じゃから、比較的潁川に近いとは言え、コミュニティとしてはまた別であろうからのう。
董卓の専断
鄭泰の進言を聞き入れなかった何進は間もなく殺害され、董卓は鄭泰の予想通り、権力を握って専断し、少帝を廃位させるという暴挙に走るんじゃ。
関東では義兵が蹶起し、袁紹を盟主とした反董卓連合軍が集結してきておる。
そこで董卓は会議を開き、兵を徴発しようとしたんじゃ。
官僚たちは皆董卓を恐れて、思い切ってその考えに反対できる者はいなかったんじゃよ。このままでは董卓がますます強力になり、抑えることが困難になる、と考えた鄭泰は次のように言ったんじゃ。
「そもそも政治の成否は道徳にかかっているのであって、兵力にかかっているのではありません。」
途端に董卓は不機嫌になり言うんじゃ。
「ほう、そう言うことなら兵力は役に立たぬ、と言うのか。」
もし下手なことを言えば、その場で斬られるやもしれぬ、と言う状況で、人々は顔色を変え、鄭泰のために震えおののかない者はいなかった、とあるんじゃ。
鄭泰殿の危機だな。どのように切り返し、この場を凌ぐことができるのか。ある意味では腕の見せ所と言うことか。
そうじゃな、こう言うところで意見を言い、うまく董卓が兵力を増強させようとするのをいかに防ぐか。当然はかりごとに長けている鄭泰には成算があるのじゃろうな。
さて、少々短いが、キリのいいとこなので、一旦ここで終わるとしようか。如何に董卓の暴走を食い止めるのか、皆さんも想像してみてくだされい。
相変わらず、いいところで話を引っ張るなw
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