三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

楊彪(ようひょう) 字:文先(142~225)その3

さて、今回紹介するのは楊彪の紹介3回目じゃな。今回は楊彪の晩年の出来事と、能力評価を行うとしようかのう。

 

さて、楊彪の紹介3回目じゃな。

どうも、張郃だ。考えてみれば楊彪殿は曹操殿より一回りも年上でありながら曹操殿よりも長生きしている一方、息子の楊脩は二人より早く亡くなっている。 

やはり曹操の逆鱗に触れたのがいけなかったのでしょうか。

演義じゃとそうじゃが、史書ではもう少し根っこが深い感じじゃのう。まあその辺りは追々本人の紹介の時にでも説明しようかの。

演義みたいに出しゃばったことが要因ではないのですね。

そうじゃな、才気煥発ではあったものの、性格的にはどちらかと言えば控えめな人物だったらしいからのう。それでは楊彪の方の紹介と行こうかのう。

人物紹介

息子楊脩の死

さて、少し上でも書いたが曹操の治世、息子の楊脩は父と違い、優れた知性と控えめな性格から曹操のお気に入りとなり、息子曹植の友人となるんじゃ。

じゃが曹植に肩入れし過ぎ。後継者争いに巻き込まれたことにより、最終的には曹操に処刑されてしまうんじゃよ。

楊脩は知恵が回りすぎたことで、どこか己を過信してしまった部分があったのかもしれんな。自身がいれば曹植曹操の跡継ぎにできる、と思ってしまったのかもしれん。 

最終的に曹操は後継者を曹丕に決めるんじゃが、楊脩を処刑後に楊彪に会った時に、「随分瘦せたな」と尋ねると「自身には金日磾のような先見の見識(明)がなかったために、今回のような事態になったのです。」と答えたんじゃよ。

金日磾は前漢武帝の頃、匈奴出身の人物だな。彼はとある事情から武帝に仕えるようになり、信任を得る。その寵愛は金日磾の息子にも及ぶが、皇帝の寵愛を良いことに、次第に息子たちは横暴な振る舞いが目立つようになる。そこで金日磾は長男を自らの手で殺害する、と言う故事だな。 

ついでに言うとこの時楊彪が言った「先見の見識(明)」が現在使われる「先見の明」の語源であったようじゃな。こういう細かい部分で、三国志が後世に影響を及ぼした部分を見ていくのも楽しみの一つじゃな。

さて、処刑した曹操に対し怨み言を言うでもなく、自身の覚悟が足りなかった、と言ってのけた楊彪に対し、曹操は態度を改めた、とあるんじゃ。

そもそも、曹操楊彪に対し、常に自身に次ぐぐらい官位に就け、董承等の処刑の時に、まとめて処刑しようと思えばできたはずなのにそれをせず、息子の楊脩も後継者争いに巻き込まれるまでは曹操の信任を受けていた訳じゃからのう。

そう考えると、曹丞相は楊彪殿、いや楊脩も含めた楊一族のことを、一方では警戒しながらも尊重していたと言えるのではないかな。全くわだかまりがない、なんてことはないであろうがな。 

曹丕による招聘

そんな曹操も220年に亡くなり、曹丕がその後を継ぐ。221年10月に皇帝となった曹丕楊彪を光録大夫の官に任じたんじゃ。

『魏書』によると、10月2日公卿は朔の朝の参朝を行った際、同時に元漢の大尉楊彪を招き、賓客の礼をもって待遇したと言うんじゃよ。

詔勅に言う。

「そもそも先代の王が床几と杖を下賜する制度を作ったのは、老齢者を賓客の礼を以て遇し、元老を褒賞し敬意を示すためである。

昔孔光と卓茂はどちらも美徳と高年のために、このよき賜り物を受けた。

公は元漢の宰相であり、祖先以来、代々名誉と節義をもって知られている。年は70を超え、行為は道に外れず、老齢にして徳の完備した人間と言って良いであろう。

格別の恩寵を授けて徳高き老人を表彰すべきである。よって公に澄明の杖と床几を賜与せよ。拝謁請願の日には、杖をついて入らせよ。また鹿皮冠を付けることを許す。」

楊彪は辞退したが認められなかった。結局麻布のひとえに皮弁をつけて拝謁した、とあるんじゃよ。

そして、この内容には少し違った内容の記録もあるんじゃ。そちらも紹介するとしようかのう。

『続漢書』によると、楊彪は漢朝の命運が尽きようとしているのを見、自分が代々三公の位を受けていたことから、魏の下臣となるのを恥と考え、足の痙攣と称して二度と出かけなかった、とあるんじゃ。

十余年を経過し、帝(曹丕)は王位に就くと大尉に取り立てたいと思い、近臣に宣旨を伝えさせたんじゃ。しかし楊彪は辞退して述べたんじゃ。

「以前、漢朝の三公でありながら、世の衰乱に遭遇し、わずかの功績も打ち立てることができませんでした。もし再び魏の臣となりますれば、国家の官吏登用にとっても名誉なことにはならないでしょう。」

曹丕はその気持ちを尊重したとあるんじゃ。こちらでは223年に光録太夫に任命した、とあるんじゃ。そして孔光の旧例にならって朝見の際の席次は三公に格付けされた、とあるんじゃ。

また門に行馬(人馬通行止めの柵)を設けてやり、吏卒を置いて、彼を優遇尊崇した。

さて、波乱の人生を送った楊彪じゃが曹操に遅れること5年、225年に84歳で逝去したんじゃ。

息子の死などがなければ、もう少し寿命を延ばしていたかもしれんな。

そうじゃな、さて、これにて楊彪の紹介は終わりじゃな。続けて能力評価に行くぞい。今回は全作品に出ておるぞい。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 楊彪(20歳)  40 65 95 130
 ↓ ↓ ↓  ↓↓ ↓↓↓
 楊彪(45歳)  68 95 128 167

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楊彪は時の権力者に対する諮問に対し、真っ先にその答えを発する人物として、様々な記録が残っておる。その見識の高さと正論から政治と知謀を評価したんじゃ。

その一方軍事面では目立つ実績もないことから控えめな評価じゃな。しかし董卓がこれだけの人材と協力体制を築くことができれば、凄いことになってかもしれんのに、惜しいのう。

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 楊彪  22 17 69 75 72

 

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 楊彪  1 1 6 8 10 12

 

鄭問三國志(Max.30)
   武勇   統率   知謀   政治   健康 
 楊彪  3 4 11 16 22

 

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雑談ぢゃ

さて、楊彪の能力評価じゃな。

ふむ、お主以外はいずれも少し能力が低めなのだな。  

知謀と政治はいずれも高いですが、確かに三国時代の名臣と比べるともう一つな感じがしますね。

演義ベースではどうしても楊脩ばかりが目立ってしまうからな。また彼を評価しなくとも政治面の人材は多数いるからさほど気にする人もいないのであろうな。 

後漢の名士は全体的にもう少し評価されて良いと思うのだがな。演義での出番が少ないからか、全体的に辛めの評価になるのだな。 

そうじゃな、個人的に後漢の人物はもう少し高めの評価をしても、とは思ってしまうかのう。さて、これにて楊彪の紹介は終わりじゃ。面白かったと思えば、次もよろしく頼むぞい。

よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。  

張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。