三国志に釣られクマー

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呂布(りょふ) 字:奉先(?~198)その3

さて、今回は呂布の紹介、3回目じゃな。今回は呂布の他の武勇伝、そして曹操以外との敗戦について、紹介をしていこうかのう。

 

さて、呂布の紹介3回目じゃな。

どうも、張郃だ。曹操以外との戦いでの紹介になるのか。 

敗戦と言うと、李進に敗れた一戦でしょうか。

そうじゃな、既に書いておるが、臧覇を攻めた時も勝っておらんのう。

臧覇は結構な名将ですから勝てなくても仕方ないのでは?

うむ、まあそれももちろん大きいが、それだけではない、今回はその辺りをちと見ていくとしようかのう。

人物紹介

李進との戦い

さて、李進についてじゃが、こんな無名な人物に呂布は敗れたのか?と思われた人もおるかもしれん。

が、乗氏県の李氏と言うと過去既にある人物を紹介しておるんじゃよ。

李典及びその従父であった李乾じゃな。既に李乾は紹介しておるので、そちらを参照してみると良いぞい。

同じ乗氏県の出身であり、単独で呂布を撃退できる、となると恐らく李進も李乾・李典等の一族に名を連ねる人物である可能性が高いと思われるんじゃよ。

呂布兗州のほとんどを支配したが、李乾・李進のようにすべての豪族が従った訳でもないんじゃ。そして呂布が乗氏県に到った時は丁度李乾が呂布配下の薛蘭・李封によって殺害されたのと前後するんじゃ。

しかもこの時呂布曹操との対峙中、蝗害にあって、どちらも食料が尽き果て退却していた、とまともに戦える状況でもなかった。李進にしてみればこのタイミングを逃すわけにはいかない、と全力で呂布に当たり、撃破したと思うんじゃよ。

李一族は食客数千家を持っていたから、私兵の数も相当な規模であったろう。さすがに張燕殿の黒山賊とは兵の練度も違うであろうし兵站の問題もある。呂布にとってはついていない状況であったな。 

そうじゃな、まあそうは言っても、簡単に打ち破れる相手ではないであろうから、李進も大したもんじゃよ。

劉備と紀霊の戦いの仲裁

さて、次は劉備と紀霊の戦いの仲裁について、じゃな。

詳細に関しては紀霊の紹介のところにあるので、そちらを見てもらうと良いぞい。

さて、ここで気になるのは呂布が一体どんな弓でどの程度の距離から、どんな風に的を射たのか、ちょっとその辺りを検証してみようかのう。

豆知識

さて、まず呂布の使ってたであろう弓であるが、これは『英雄たちの装備、武器、戦略 三国志武器辞典』を見ると、握りを中心とした左右対象の複合弓が描かれており、これはどちらかと言うとアーチェリーで使われる弓に構造が近く、命中精度は日本の弓道で使われる和弓よりも高いものじゃな。

とは言えもちろん今のアーチェリーで使われる弓と違い、命中精度を高めるための装備が付いている訳でもなく、やはり相応の訓練をしないといけないのは確かじゃ。

続けて呂布の腕前の程じゃが、丁度今年オリンピックがあったのでそちらを参考にすると、ランキングラウンド(予選)で70mの距離からそれぞれ72射して、ポイントの合計を競い、そこから決勝ラウンドへ進む形式じゃな。ワシこの辺りはあまり詳しくはないので間違っていたら許してくだされよ。

呂布は1射しかしておらんし、距離もはっきりとはしておらん。じゃが離れた距離から戟の小枝に自信満々に当てると言うのは、恐らく容易に的の中心に当て、10点をとれるぐらいの自信と技量があったのではなかろうか。ちなみに五輪上位は680ポイント前後は取っていくことから、半分以上は10ポイント、残りもほとんどを9ポイントに当てないと簡単には届かない数字じゃな。

もし呂布が現代の五輪に出ておったら、金メダルを取っていたかもしれん。可能性の話でしかないが、ちと浪漫のある話よのう。

元々騎射を得意としていた人物だから、そのまま地上で射ることの技量に結び付くのかは分からんのじゃが、ちと興味があるのう。

臧覇との戦い(追記)

さて、臧覇との戦いじゃが、既にその1で書いておるので、詳細はそちらを見てもらえばいいぞい。

ここで語るのは、呂布がなぜ臧覇に敗れたのか、と言う部分じゃな。

これはまあ少し考えればわかることじゃが、騎馬隊が攻城戦にはあまり向かないことが大きな要因じゃろうな。

どれほど騎馬の突破力が優れていたとしても、城壁を突き破ることはできんし、登ることももちろんできん。

城を攻めるためには攻城兵器を使いこなす等、また別の技量が必要、と言うことじゃろうな。そう言えば日本の戦国時代でも例えば秀吉とかは城攻めが上手い、と言う印象が強い一方、家康は例えば真田だったり、大阪の陣だったり、案外苦戦している印象があるのう。

三国志の時代であれば、曹操は城攻めの名人と言えるじゃろうな。城を攻めるのが上手いと言うことは攻めて側の意図を読み取れることにも繋がる、官渡であれだけ粘り強く袁紹の攻撃を跳ね返せたのもそう言った背景があったからではないかのう。

逆に孫呉は何年も黄祖を攻め滅ぼせず、その辺りあまり得手と言えない印象があるのう。

まあ曹丞相でも昌豨のようになかなか城を落とせず苦労している相手もいるがな。それでも城を落とせねば版図を広げることはできん。中原をあれだけ支配できたのは城を落とす術に長けていたからなのは確かだな。

呂布は平面の戦いは得意だったかもしれんが城攻めに代表されるように、縦軸の戦いはそこまででもなかった。戦場を立体的に見立てた曹操とはその部分で差ができてしまった、と言う感じじゃろうか。

と言ったところで今回はここまでじゃな。さて、呂布のちょっと意外なエピソードは語れんかったか。次辺りでケリを付けたいもんじゃが、どうなるかのう。

 

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