三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

呂布(りょふ) 字:奉先(?~198)その5

さて、今回は呂布の紹介5回目じゃな。今回は呂布の筆マメエピソードの続きと、その最後、そして能力評価、まで行けるかのう・・・。

 

さて、今回は呂布の紹介、多分今回が最後・・・までいけるかのう。

どうも、張郃だ。相変わらずの無軌道ぶりだな。まあ呂布も結構な分量になったから仕方ないか。 

それにしても呂布の筆マメなエピソードはちょっと意外でしたね、演義だと全然イメージが湧かないです。

演義じゃと分かり易い一介の武人としての側面しか描写しておらんからのう。小説とかは分かり易い設定にした方が、多分読者受けもし易いからじゃろう。

そう言えば庶民には諸葛亮とか関羽よりも張飛が大人気だったって、何かで見た記憶がありますね。

そうじゃな、呂布もそう言う分かり易い武将にされたが故に人気になった、と言う面もあるじゃろうからのう。さて、それでは筆マメエピソードの続き行こうかのう。

人物紹介

筆マメエピソード(韓暹・楊奉

さて、呂布が送った書簡は他にもあり、ここからは結構実際に効果のあった書簡も多いんじゃよ。

これは袁術呂布と婚姻を結ぼうと約したが、呂布が途中で考えを変えて、娘を取り戻した時のことじゃな。当然袁術は怒り、韓暹・楊奉と連合軍を結び、張勲を派遣して攻めてきた時のことじゃ。

『九州春秋』によるとこの時呂布は韓暹と楊奉に手紙を送っておるんじゃ。内容は以下の通りじゃな。

「二将軍(韓暹・楊奉)には天子のみくるまを脱出させて東へ移しまいらせ、国家に対して大きな功績を立てておられます。その勲功は万世の後まで消滅せぬよう、記録にとどめてしかるべきものです。

ただいま袁術が反逆に踏み切りましたからには、当然力を合わせて打倒すべきでありますのに、どうして逆賊と結託して反対に私を討とうとなさるのですか。

私には董卓を誅殺した手柄があり、二将軍と同じく国家に対して功績を立てた臣下であります。今この時こそ力を合わせて袁術を撃破し、天下に功業を樹立すべきです。この時期を逃してはなりません。」

この書簡を見て韓暹と楊奉はすぐに計画を変更して、呂布に味方をしたとあるから、呂布の寝返り工作もたいしたものだ。 

さよう、実利もある辺り、実は結構すごいことなんじゃよ、さて次は袁術に対する最大級の皮肉じゃな。

袁術への書簡

さて、上記戦役で韓暹と楊奉を味方にし、袁術軍を破った呂布じゃが、『英雄記』によると、その後呂布袁術の本拠地寿春に向かって攻め込み、鍾離まで行き、大いに戦利品を挙げて帰途につくんじゃが、この時に袁術に手紙を残すんじゃ。

「足下は軍隊の強大さを誇って、勇猛な武将、勇敢な兵士が敵を完全に破滅させようとするのを常に抑制しているのだぞ、といつも言っておられた。

私は武勇なき者だが、淮南の地を虎の如く歩き回ると、わずかの間にも関わらず足下は寿春にねずみのようにコソコソと逃げ込み、頭を出すものさえいないありさま。

足下の勇猛な武将、勇敢な兵士は一体皆どこへ行ってしまったのか。

足下は大言壮語して、天下の人をたぶらかすのが好きなようだが、天下の人をどうしてことごとくたぶらかすことができようぞ。

昔は交戦状態にあっても、双方の間に使者が行き来したと言うことだ。この文書を書いたのは私の発案ではないが、互いの距離はそう隔たってはいないのだから、また手紙を差し上げよう。」

これ以上ないぐらい皮肉のこもった文章だな。これを読んだ時の袁術の顔を見てみたかったものだ。ちなみに交戦状態であっても使者の行き来があった、と言うのは『春秋左伝』に載っている文章だ。これをさらりと使っている辺り、教養の深さが窺い知れるであろう。

もしこれが演義で採用されておったら、袁術は怒りのあまりこの手紙を読んだことで憤死した、となってたかもしれんのう。あたかも諸葛亮が敵対する相手を、書簡や口撃で憤死させたように・・・のうw

蕭建への書簡

続いては蕭建と言う人物が瑯邪の相であった時の話じゃ。『英雄記』によると蕭建は城の守りを固め、呂布とよしみを通じようとしなかったんじゃ。これを見て呂布は三度筆を執る。

「天下の人が兵を挙げたのは元々董卓打倒が目的だったからだ。私は董卓を殺害して関東に至り、軍勢を募って天子のみくるまをお迎えして、洛陽を復興させたいと念じていたが、将軍たちは逆に互いに攻撃し合って、国家に思いをいたそうとする者はいなかった。

私は五原郡の人間であって、五原郡は徐州から五千里以上離れた、天の西北の隅にあるのだから、何も今わざわざやってきて、天の東南にある土地を争い合おうとは思っていない。

莒は下邳からほど遠くない地点にある故、当然よしみを通じてしかるべきであろう。君がもし自分の意思を貫くならば、郡は各々の帝国、県は各々の王国だと考えておられることになる。

楽毅が斉を攻撃した時、あっという間に斉の七十余城を攻め落としたが、ただ莒と即墨の二つの城だけは落ちなかった。その理由は城中に田単がいたからである。私は楽毅ではないけれども、君もまた田単ではない。私の手紙を受け取って知恵者と共にとっくりと相談するがよかろう。」

この手紙を読んで、蕭建は返書を書き、良馬五頭を献上するんじゃ。もっともこの後蕭建は臧覇に攻められて、物資を奪われてしまうんじゃがな。

ここでも楽毅や田単の故事を引いておる。普通に史記も読んで身に着けていることが伺えるな。

こうやって見ると、本当に呂布には才能があったんじゃな、と思われる。それにしてもその呂布が滅びねばならんとはのう。さて、いよいよ次で呂布の紹介は終わりじゃな。結局丸々一週間呂布の紹介になってしまったのう。それでは次もよろしく頼むぞい。

 

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