三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

蔡邕(さいよう) 字:伯喈(132~192)その1

さて、今回紹介するのは蔡邕じゃな。鄭玄が市井の大学者とすれば、蔡邕は国家に仕える大学者なんじゃ。じゃが彼も多くの名士と同様、若い頃はかなり苦労したようじゃな。それでは蔡邕について見ていくとしようかの。

 

さて、今回から蔡邕の紹介じゃな。

どうも、張郃だ。後漢の大学者であり、蔡文姫殿の父上だな。彼女も相当な才人であったが蔡邕殿も相当なものがあったな。 

そう言うのを聞くと興味が出てきます。演義ではどうしてもちょっとしか出番がないですから。

そうじゃな、蔡邕殿のエピソードは後漢書の方に多いようじゃ。しかしそちらの訳文は持っておらんので、宮城谷氏の『三国志外伝』を参考に見ていくとしよう。

分かりました、よろしくお願いします。

うむ、それでは早速行くぞい。

人物紹介

若い頃の蔡邕

宮城谷氏の『三国志外伝』を見ると、蔡邕は字を伯喈と言い、陳留国の出身なんじゃ。

若い頃のエピソードじゃが、彼の孝心は尋常ではなく、母親が患った時は看病に従事し、自分の寝床で寝ない日が70日にも及んだと言うんじゃ。

そして母親が亡くなると、墳墓の傍らに盧(草ぶきの小屋)を作り、実際に三年喪に服した、と言うんじゃ。

ポーズではなく、蔡邕殿のように実際に喪に服すと普通に衰弱し、最悪死に至ることもある。これを見かけ上とか名目上やったふりをする人がほとんどの中、尋常でないと言うのはその通りだな。 

さよう、これを実際にやった、と言うことで蔡邕の名は広まったんじゃ。

蔡邕は若い頃単独で学問を修めようとしたのじゃが、やはり独学には限界があり、胡広と言う人物に師事したんじゃ。

蔡邕は数術や天文にも関心があったんじゃが、特に音楽に才能を発揮したんじゃよ。『博物志』によると蔡邕は音楽に精通しておる人物の代表として紹介されるんじゃ。そしてこの音楽の才は娘の蔡文姫にも伝えられ、彼女はその優れた才を後に示すこととなるんじゃ。

余談じゃが、『博物志』では曹操もまた蔡邕に匹敵する才能を持っておったと、書かれておるんじゃよ。やはり大したもんじゃのう。

橋玄からの辟召

さて、171年に当時の司徒であった、橋玄からお声がかかるんじゃ。一度河平県の長に任じられた後、中央に呼び戻されて郎中を拝命し、その博識ぶりを認められるんじゃ。

後漢書』によると、馬日磾、盧植、蔡邕、楊彪、韓説らが議郎として、東観の図書館で「中書の五経紀伝を校し、漢記を補続す。」とあるんじゃ。

この辺りは楊彪のところにも書いているぞい。

 

 

さて、ここで書物の誤字や遺漏などを直していくんじゃが、かなり多いことに蔡邕は気づくんじゃ。その内容は以下のようなもんじゃよ。

 

豆知識

さて、時代は夏・殷・周の頃の話じゃ。

この時代は非常に長く王朝を維持することができておったが、その要因として、三老・五更(老いて退官した官吏を天子が三老・五更として父兄の礼を以て遇し、天下に孝悌の道を示した)を置いて、最上の尊敬を捧げ、その意見を請い教えを受け入れ、誠実な史書に記録した、とあるんじゃよ

さて、ここで問題になるのは五更の「更」じゃな。

蔡邕の『明堂論』によると、「更」は本来「叟」とすべきである。「叟」とは長老の称号であり、字形が「更」と似ているから書写する者が間違って「更」としたのである。「嫂」と言う字は「女」編に「叟」であるが、現在はこれも「更」となっている。この証拠から「更」は「叟」とすべきである。

 

このように書物の誤った文字を校訂するよう奏上し、、霊帝の詔許が得られたことで、蔡邕は皇帝し終えた文字を石碑に刻み、大学の門の外に建てさせた、とあるんじゃ。

ちなみに『Wikipedia』の情報じゃが、これは熹平石碑として、現在も博物館などに収蔵していると言うんじゃ。文字数は20万字にも及んだと言うから相当なものであったと言えるじゃろうな。

このように蔡邕の学問は各書物の誤字を修正し、正しい字句と書体を学べるようにしたんじゃよ。

ちなみに蔡邕殿は書の達人でもあった。彼の後を鍾繇殿が継ぐような感じだな。

これだけのことをやっていく、まさに鄭玄とは別の大学者と言えるであろう。

と言ったところで今回はここまでじゃな。次は董卓時代に突入できるかのう。

少し短いが、まだ蔡邕には語ることがあるので、次も楽しみに待ってくだされ。それではまたの。

 

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