三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

劉艾(りゅうがい) 字:不明(?~?)

さて、今回紹介するのは劉艾じゃな。字は不明、生没年も不明じゃな。彼も董卓軍の中ではあまり知名度が高くないと思うんじゃが、劉姓から分かるように、ちょっと特異な人物なんじゃよ。

 

さて、今回紹介する人物は劉艾じゃな。

どうも、張郃だ。劉艾殿は宗室に連なるであろう人物だから、何気に重要な立場だな。

今までも劉姓の方って結構出てきていますが、それとはまた別なんでしょうか。

うむ、後漢の群雄で有名な劉備劉表劉璋及び劉璋の父の劉焉、劉虞、劉寵辺りがまあまあ有名じゃが、この内後漢の宗室なのは劉虞、劉寵だけなんじゃな。他は前漢の宗室なんじゃな。

意外と後漢の宗室の方って少ないんですね。それではご紹介よろしくお願いします。

人物紹介

董卓時代の逸話

さて、劉艾についてじゃが、彼の名前が最初に出てくるのは『孫堅伝』の所じゃな。

孫堅が洛陽を目指して進軍していた頃の話じゃ。『山陽公載記』によると、この時董卓が劉艾に対し、関東の諸侯は腑抜けばかりだが、ただ孫堅だけは他の奴程馬鹿ではなく、人をうまく使う才能がある、と警戒すると劉艾は以下のように言うんじゃ。

孫堅は時に優れた計略を表しますが、元々李傕や郭汜にも及ばぬ人物です。聞けば美陽亭の北で歩兵と騎兵を率いて賊徒と合戦して瀕死の重傷を負い、印綬まで失ってしまったとのことです。これでは手腕はあるとは申せますまい。」

すると董卓は珍しく孫堅をかばい

「あの時孫堅はてんでバラバラの義勇軍を集めただけで、手勢も賊徒ほど精鋭ではなかった。それに戦いには得手不得手があるものだ。ただ、中原の大勢を詳細に考えてみても、結局どう言うことになるのか全く不明で、それだけに孫堅の存在が気味悪く感じられるのだ。」と言うんじゃよ。これに対して劉艾は以下のように言って董卓を励ますんじゃ。

「中原の小童どもが民衆を駆り立てて反乱を起こしておりますが、その矛先の鋭さは我々に及ばず、甲冑の堅牢さ、武器の鋭さ、弩弓の強さも我々には及びませんから、どうして長く勢力を保つことができましょう。」

董卓もこれに応えて「その通りだ。二袁と劉表孫堅さえ殺せば、天下は自然と俺に服従することになる」と言うんじゃよ。

ふむ、これだけを見ると、劉艾殿は董卓のただの腰巾着のようにしか見えないな。

そうかもしれんが、どちらかと言うと単純な軍事的な判断力は董卓の方に一日の長がある、と見るべきじゃろうな。

長安からの脱出

献帝長安から脱出しようとした時のことじゃ。

献帝起居注』によると、天子が出発し、宣平門まで来て橋を渡ろうとした時、郭汜の部下数百人が橋を遮り「天子か?」、と尋ね、御車は進むことができなかったんじゃ。

李傕の部下数百人は全員大戟を手にして御車の周囲を固めたんじゃ。

この時劉艾(この時の役職は侍中)が大声で「天子様だ!」と呼ばわり、楊琦に命じて車の御簾を高く上げさせた。今度は帝が兵士達に「お前たちは後ろへ下がりもせず、どうして至尊の側近くまで迫ってくるのか。」と言われたので、やっと身を引いた、とあるんじゃ。

劉艾殿も献帝もなかなかの胆力であるな。

その後、李傕と郭汜が追撃してきて、楊奉等と戦となった後じゃ。楊奉等は敗北し、献帝らも陝へ逃走したんじゃが、『献帝紀』によると、最初黄河に船を浮かべて献帝を東下させようとの意見を述べる者があったが、楊彪「ここから東には36の早瀬があり、とても天子が通られるべき場所ではありません。」と言うと、劉艾も「私は以前陝令をしておりまして、その危険を承知しています。案内がいても転覆することがありますのに、まして今は案内がいない。太尉(楊彪)の判断は正しい。」と言ったので中止になったんじゃよ。

軍事は門外漢であったかもしれんが、この辺りの判断は優れている、と言えるじゃろうな。さて、もう少し劉艾の名前は出てくるんじゃよ。

曹操時代、献帝の側にて

さて、その後劉艾が面だって活躍することは亡くなるんじゃが、その後も献帝の側近くで務めておったことが伺えるんじゃ。

213年秋、献帝曹操の3人の娘を迎え入れて貴人としたんじゃ。

献帝起居注』によると、この時行常事大司農安陽亭侯の王邑と宗正の劉艾を使者として二貴人(一番年少の娘は国で成長を待つことになった)を迎え入れさせるんじゃよ。

ここの宗正についてじゃが、『三国志全人名事典』によると、これは九卿の一つで、皇室に関する諸事務を担当し、王国の子弟の嫡庶の序列を定める役割を担っていたんじゃ。宗正府の属官には、諸侯主毎主家令・家僕等がいたんじゃよ。

宗正府と言うのは、言わば皇室の人達のための府だな。当然そこを取り仕切る劉艾も宗室に連なる一員と言う訳だ。

そうじゃな。記録を見ると劉虞も宗正だった時期があるようじゃ。彼も後漢の宗室じゃからな。

更に216年、曹操の魏公の爵位を昇進させて魏王とした時のことじゃ。

献帝伝』によると、この時の使者として使持節行御史大夫・宗正の劉艾に辞令と印璽等を持たせて遣わした、とあるんじゃよ。

董卓時代から一貫して献帝の側近くに仕えていた訳だ。董承等の反乱騒ぎにも巻き込まれておらんかったことから、自らの立場を律し仕えておった、と言うことだろうな。

当初の印象からは少し見た目が変わってくるのう。さて、劉艾の紹介はここまでじゃな。続いて能力評価と行こうかのう。今回はワシの評価のみじゃな。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 劉艾(20歳)  40 80 55 100
 ↓ ↓ ↓  ↓↓ ↓↓
 劉艾(45歳)  68 112 84 134

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劉艾は侍中、宗正として、皇室の代表として長らく献帝の側で支えておったことから政治能力を高めとしたんじゃ。また郭汜の軍にひるむことなく大喝して引かせることに成功していることから統率も高めじゃ。

ただ、孫堅評を見るに軍事的な才能はないと判断し、軍事・知謀は抑えめじゃな。

 

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雑談ぢゃ

さて、劉艾の能力評価じゃな。

ふむ、政治がなかなか高いのだな。  

目立たないですが、216年まで記録が残っているって、ほんとずっと献帝の側で支えていたのですね。

そうじゃな、長らく宗正を務めておったことからも、宗室の長老格として丁重に扱われておったのではなかろうか。そんな彼が曹操の魏王就任の使者として赴く、時代の移り変わりを嫌でも感じていたであろうな。さて、今回はここまでじゃな。次もよろしく頼むぞい

よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。  

張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。