三国志に釣られクマー

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馬騰(ばとう) 字:寿成(?~212)その1

さて、今回から西涼方面の群雄の紹介じゃな。栄えあるトップを飾るのは馬騰じゃな。

字は寿成、生年は不明じゃが、没年は12年じゃな。

演義と正史では彼の死は大きく違ってくるんじゃよ。ある意味悲劇の武将、と言うべきかのう。

  

さて、今回は馬騰じゃな。息子の馬超のこともあるから、彼は結構有名であろう。

どうも、張郃だ。ふむ、今回は馬騰殿か。

馬超のお父さんに当たる人物ですよね。ゲームとかでは結構優秀な武将ですよね。

そうじゃな、彼は馬超のこともあって結構知名度が高い人物じゃな。そして彼は演義と正史で最後に至る要因が大きく違った人物じゃな。それではまずは戦績の方から見ていくとしようかのう。

わかりました、紹介をお願いします。

人物紹介 

軍事面の実績 

馬騰戦績

   対王国 〇 涼州

   対羌族 〇 涼州

   対氐族 〇 涼州

   対王承 ×  長平

   対樊稠 ×  長平観

   韓遂 〇 涼州

   対韓遂 ×  涼州

   対郭援 〇 河東

対衛固・張琰 〇 河東・弘農

   対張晟 〇 河内

   対高幹 〇 幷州

 

                         11戦 8勝3敗

 

およそ以上になるかのう。トータルの勝率は7割3分弱じゃな。目に見える戦闘数こそ少ないが、何度も官位が上がっていることから、記録に残っていない異民族との戦いで活躍しておったようじゃな。

基本は異民族との戦いが多かったんじゃが、一時期は義兄弟の間柄であった韓遂といがみ合った時に、かなりの激戦が繰り広げられたようじゃな。

それではいくつかの戦場での戦いを披露しようとするかのう。

主な軍事内容

韓遂との戦い

さて、馬騰韓遂長安におった樊稠らに攻められて敗走した後の話じゃ。『典略』によると、当初義兄弟として親しく付き合っておった二人じゃが、その内に兵を繰り出し、互いに侵入し合い、仇敵の間柄となったんじゃ。

こうなるに至った経緯は不明じゃが、馬騰は一度韓遂を攻撃して、これを敗走せしめたんじゃが、韓遂は軍を糾合して立ち戻り、馬騰を攻撃して、今度は馬騰の妻子を殺害してしまったんじゃ。これにより戦闘は何時までも継続する泥沼の事態に陥ってしまったんじゃよ。

ちなみに、馬騰の息子の馬超韓遂配下の武将、閻行が一騎打ちを行ったのはこの時期であろうな。結果は・・・うむ、その内こ奴が書くであろうw

後にこちら方面の鎮撫を任された鍾繇が両者を和解させることで、やっとこの泥沼の争いは終わった、と言うことじゃな。

郭援・高幹等との戦い

さて、時代は曹操袁紹を破って、しばらく後に袁紹が亡くなり、袁尚曹操に抵抗していた時期の話じゃな。

魏志『張既伝』によると、袁尚は彼が任命した河東郡太守の郭援、幷州刺史の高幹と匈奴単于に平陽を奪取させる一方で、馬騰等を引きこもうとするんじゃ。

しかし、鍾繇が逆に馬騰等を説得することで、曹操側に従わせることに成功し、彼らに郭援・高幹等を攻撃させるんじゃ。

馬騰等は彼らを攻撃して大いに破り、郭援の首を斬り、高幹は降伏するんじゃ。

じゃが後に高幹は再び幷州を挙げて反乱し、河内の張晟、河東の衛固、弘農の張琰なども反乱を起こすんじゃが、馬騰等が再び鍾繇に呼ばれ、彼らを攻撃してすべて撃破することに成功するんじゃよ。

並の反乱であればあっという間にこれを撃退してしまう。馬騰には羌族の血も入っておるが、恐らく彼らの精強な軍も取り込んだ精兵揃い、と言うことであろうな。

さて、とりあえず今回はここまでじゃな。次でそれ以外のエピソードや能力評価まで行こうと思うぞい。

 

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