三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

侯選(こうせん) 字:不明(?~?)

さて、今回は侯選の紹介じゃな。実際は彼も群雄の一人なんじゃが、彼らを別々の群雄として分けてしまうと、細切れになりすぎて収拾がつかんのじゃよ。そこで馬騰を旗頭とした同盟に近い従属関係、と言う感じでまとめていこうと思うんじゃ。

 

さて、今回は侯選の紹介じゃな。

どうも、張郃だ。侯選は関中諸軍の一人だな。 

演義では馬超と一緒に曹操と戦った人物の一人ですよね。

そうじゃな、途中まで彼は馬超と行動を共にしておったようじゃな。

途中まで、と言うと途中からは違う運命となったと言うことですね。

そう言うことじゃな、それでは早速見ていくとしようかのう。

人物紹介

さて侯選じゃが、史書で書かれておるのはわずかじゃな。

まず蜀志『馬超伝』の裴松之注『典略』に記録が残っておるんじゃ。

建安十六年(211年)、曹操が漢中討伐軍を率いて関中を通過しようとしたところ、馬超は関中の諸将と共に反乱を起こしたんじゃ。

そしてその諸将の中に侯選もおった、と言うことじゃな。

彼らの軍は総勢十万、とのことじゃが、本当にそれだけの軍勢を集めることができたのかは、はっきりせんのう。それだけの軍勢を賄えるほど富裕な地域ではなかったと思うんじゃがな。

この時、渡河のタイミングで丁度馬超が攻めてきたので、後詰めにおった俺と許褚は同じく控えておった丞相を逃がすのに苦労した。まあそれ以降はそこまで苦戦したことはないがな。 

そう言えばこの後張郃殿は長安以西での軍事行動が多くなるんじゃったな。馬超はこの戦いの後も、西方で暴れておったが、張郃殿が攻撃に向かい、追い払ったんじゃったな。

さて、ちょっと先走ってしまったが、結局この関中軍の反乱は失敗するんじゃ。曹操配下の賈詡による離間の計により、互いが疑心暗鬼になったところで曹操に攻められ、大いに打ち破られてしまうんじゃ。

敗北後の侯選がどうなったのか、じゃがこれは魏志張魯伝』のところに載っておるんじゃ。

張魯伝』の裴松之注『魏略』によると、馬超の反乱で合流したが、馬超が敗走した時、侯選は南下して漢中に逃げ込んだ、とあるんじゃ。

後に馬超も漢中に逃げてきておるが、それよりも先に侯選は漢中で張魯の世話になっておったようじゃな。

じゃが、知ってる方は知っていると思うが、張魯は後に曹操に敗れ、降伏してしまう。侯選等は一度曹操に対して反乱をしておることから、下手したら処刑されるやもしれん。それでも彼らに降伏以外の選択肢はなかったが、彼らが出頭すると、またもや曹操は彼らを全員許し、元の官職を授けられた、とあるんじゃよ。

良く勘違いされるが、丞相ほど裏切り者を許している人物も、早々いないと思うのだがな。 

そうじゃなあ。曹操殿は兗州の反乱時代も、曹操を裏切った人物を何人も許しておる。反乱を起こす要因じゃが、曹操の場合は祖父が宦官、と言うハンデが付いて回る、こればかりは本人のせいとは言えんことから、気の毒と言えるじゃろうな。

曹操降伏後の侯選じゃが、その後彼の記録は出てこんのじゃよ。つまり侯選の人物紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行こうかの。もちろん彼は全作品に登場じゃ。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 侯選(20歳)  90 55 40 35
 ↓ ↓ ↓  ↓↓
 侯選(45歳)  123 84 68 62

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侯選馬超と共に関中を代表する軍閥の一人であったことから、当然軍事面を評価しておるんじゃ。この時、関中の反乱者は大きく3つに分かれるんじゃ。一つは反乱時に戦死した者、一つは漢中に逃げた後、曹操に下った者、一つは蜀の劉備の下へ逃げた者。

侯選は二つ目に該当するのう。曹操に降伏後は活躍が見られないことから、軍事以外は全体的にはちょっと抑え目の評価じゃな。

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 侯選  62 66 35 55 52

 

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 侯選  8 7 6 3 4 5

 

鄭問三國志(Max.30)
   武勇   統率   知謀   政治   健康 
 侯選  13 8 9 12 18

 

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雑談ぢゃ

さて、侯選の能力評価じゃな。

彼に関しては知謀や政治で多少上下はあるが、皆似たような評価じゃな。  

軍事・武勇が一番高く、と言う傾向は同じですね。鄭問さんの政治はちょっと不思議な感じがしますが。

そうじゃな。いずれも防衛より攻勢に強いと言うのは共通するところであろうな。 

ただ、攻めるにしても騎馬による力任せの攻撃は、いつまでも通用するものではないからな。 

そうじゃな、時代が進むとともに戦い方にも変化が起きておる、それに対応できねば頬部のみじゃからな。と言ったところで、今回はここまでじゃな。良ければ次もまたご覧くだされ

よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。  

張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。