さて、今回は成宜の紹介じゃな。彼も侯選同様に群雄の一人なんじゃが、彼も馬騰を旗頭とした同盟に近い従属関係、と言う感じでまとめたんじゃ。字と生年は不明じゃが、没年は211年じゃな。
さて、今回は成宜の紹介じゃな。
彼もまた演義では馬超と一緒に曹操と戦った人物の一人ですよね。
そうじゃな、彼はこのこの時の戦いで命を落としたようなんじゃよ。
戦死されてしまった、と言うことですか。
そう言うことじゃな、交戦と語ることはほとんど同じじゃが、見ていくとしようかのう。
人物紹介
建安十六年(211年)、曹操が漢中討伐軍を率いて関中を通過しようとしたところ、馬超は関中の諸将と共に反乱を起こしたんじゃ。
そしてその諸将の中に成宜もおった、と言うことじゃな。
関中諸軍はいずれも異民族と共に生活しておるためか、騎馬の運用に長けた人物が多い。なかなかの難敵であったな。
この馬超達との戦いでも、張郃殿は活躍しておった訳じゃから、言うて引けは取らんかったのでしょうな。
さて、潼関の戦いと言われておる、曹操と馬超の戦いじゃが、この時は魏軍が大勝し、この時に成宜は戦死してしまうんじゃよ。
騎兵も戦い方次第ではその威力を抑え込むことができるからな。
そうじゃな。まあ戦場での死亡は運も絡んでくるから、そう言う意味では成宜は運がなかった、と言えるかもしれんのう。さて、成宜の人物紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼は鄭問さん以外の作品に登場じゃ。
能力評価
成宜は馬超と共に関中を代表する軍閥の一人であったことから、当然軍事面を評価しておるが、侯選と違い、潼関の戦いにより戦死したことから、侯選よりは少し抑え目の評価としたんじゃ。
劉備もそうじゃが、やはり生き残ってこそ、と言う部分があるからのう。
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雑談ぢゃ
さて、成宜の能力評価じゃな。
これに関しては侯選との比較が分かり易いか。お主と天舞三国志は侯選の方が評価が高く、三国志14は逆に成宜の方が高いのだな。
これはまたきれいに色分けされましたね。
そうじゃな。まあこの辺りも見方次第で評価は大きく変わってくるからのう。
西涼にいたころの記録が残っておれば、もう少し評価もしやすくなるであろうが、こればかりは仕方ないであろうな。
そうじゃな、張郃殿の記憶だけを頼りに記録するわけにもいかんから、ここは難しい話じゃのう。さて、今回はここまでじゃな。良ければ次もまたご覧くだされ。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。