三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

龐柔(ほうじゅう) 字:不明(?~?)

さて、今回は龐柔の紹介じゃな。彼に関してはほとんど実績は残っておらんが、ある人物との関係から名前を残すこととなったんじゃ。字や生没年は不明。まあもったいぶっておるが知っている人は知っているかのう。

 

さて、今回は龐柔の紹介じゃな。

どうも、張郃だ。もったいぶって言っているが、龐悳殿の兄にあたる人物だな。 

あ、上で書いてたある人物、と言うのは龐悳のことだったんですね。

うむ、まあ彼に関してはほとんど記録がないからのう。さて、余りもったいぶってもしようがないので、彼について見ていくとしようかのう。

よろしくお願いします。

人物紹介

さて龐柔についてじゃが、彼の記録は正史本文では名前が出てこんのじゃが、間接的に龐柔の存在は描かれているんじゃ。

まず魏志龐悳伝』の本文じゃが、丁度関羽が北上し、樊城や襄陽を攻撃しようとしていた時のことじゃ。その少し前に宛にて、侯音・衛開が反乱を起こした時のことじゃ。

龐悳は配下の兵を率いて曹仁と共に宛を攻撃して陥落させ、彼らを斬り、樊城に駐屯して関羽を討伐したんじゃ。

演義では龐悳殿は于禁殿と共に曹仁殿の救援に向かっているが、正史では最初から曹仁殿と共に行動している、細かい部分であるが、演義は内容を微妙に改変しているな。 

于禁龐悳との違いを際立たせるために、敢えてそう言った改変を行ったのじゃろう。演義によって于禁はダメ武将であるかのような印象を与えてしまったのじゃから、罪な話じゃな。

さて、樊城に駐屯しておった武将達じゃが、この時樊城の諸将の間には龐悳に対する、ある疑いが頭をもたげておったんじゃよ。それは龐悳の兄が漢中にいたことから、彼も蜀に寝返るのではないか、と言う疑惑じゃな。

そして『魏略』によると、この時、龐悳の従兄の龐柔が当時、蜀にいた、と言うことなんじゃよ。

また、龐悳関羽に捕まった時のことじゃ。

突っ立ったままひざまずかない龐悳に対し、関羽は以下のように言ったんじゃ。

「卿の兄は漢中におる。わしは卿を将とするつもりだが、さっさと降伏しないのはどういうわけじゃ。」

ここでも間接的にじゃが蜀に龐悳の兄(正確には従兄)がいることを示唆しているんじゃよ。

当時は同族であれば従兄弟でも兄弟と言うこともあったからな。この時の兄、と言うのが龐柔を指しているのはほぼ間違いないであろう。もっとも何時、彼が劉備に仕えるようになったかの経緯までは分からんがな。 

そうじゃな、そして彼に関する記述もこれで終わりじゃな。さて、続けて能力評価と行こうかのう。今回はワシのみの評価じゃな。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 龐柔(20歳)  70 30 40 35
 ↓ ↓ ↓  ↓↓
 龐柔(45歳)  101 57 68 62

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龐柔は恐らく龐悳と共に馬騰に仕えておった、純粋な馬騰配下の人物あったと思われるが、実績はないため全体的な評価は抑えめじゃ。

ただ、兄の龐悳の活躍から武官寄りと判断し、龐柔も能力の中では軍事をやや高めの評価としたんじゃよ。

 

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雑談ぢゃ

さて、龐柔の能力評価じゃな。

関中諸軍と比較しても、評価としてはやや低い感じだな。  

戦死した成宜と同じぐらいの評価になるんですね。

まあ、成宜は言うても関中軍閥の一人じゃから、これでも龐柔の評価は少し高かったかもしれんのう。 

だがまあ龐悳の評価が結構抜きんでているからな。多少色をつけたくなるのも分からんでもないか。 

そうじゃな、もし龐悳以外の兄とかであれば、もう少し軍事も抑えておったかもしれんのう。さて、今回はここまでじゃな。次もよろしく頼むぞい

よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。  

張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。