三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

楊秋(ようしゅう) 字:不明(?~?)

さて、今回は楊秋の紹介じゃな。字や生没年は不明。彼も関中群雄の一人として馬超と共に曹操と戦っておったんじゃが、その後彼は意外なところに足跡を残すようになるんじゃよ。それでは彼について紹介していこうかのう。

 

さて、今回は楊秋の紹介じゃな。

どうも、張郃だ。楊秋殿か。彼はなかなか面白い人生を送った人物だな。 

関中軍閥の一人、と言うと他の人と印象は同じように見えますが、何か違いがある、と言うことですね。

そうじゃな、この楊秋と言う人物は、何故?と言う記録が所々に見えるんじゃよ。それでは楊秋について見ていくとしようかのう。

よろしくお願いします。

人物紹介

関中軍閥として

さて、楊秋じゃが『魏略』によると関中軍閥の一人として、馬超と共に反乱を起こし、曹操に抵抗するんじゃ。

その辺りは侯選の所に書いておるので、一度そちらを見てもらうと良いぞい。

じゃが、実はそれより以前、楊秋は配下の孔桂と言う人物をたびたび使者として曹操の下に送ってやり取りをしていたんじゃよ。

孔桂は後に佞臣として処罰されるが、まあ要は相手の気持ちを汲み取り、耳触りの良い発言をすることで、曹丞相にもだいぶ気に入られておったようだからな。 

恐らく孔桂の働きもあり、楊秋は他の関中軍閥より、曹操と太いパイプを築いておったのではなかろうかのう。

さて、結局関中での反乱は敗北に終わるんじゃが馬超韓遂達が涼州方面へ大きく逃げるのとは別に、楊秋は安定郡へ逃げるんじゃ。安定郡は雍州の中央北部に位置し、長安よりはやや北西方面に位置しておるんじゃが、馬超等と比べて大きく逃げてはいないんじゃよ。

当然、楊秋は魏軍の攻撃の大地のターゲットとなってしまう。曹操夏侯淵張郃等、錚々たる面子が安定を包囲することで、楊秋は降伏するんじゃ。

すると曹操はこれを許し、爵位を元通り与え、その地に留まらせて、住民を鎮撫させるんじゃ。こうして楊秋は曹操配下となるんじゃよ。

魏の武将として

さて、魏に下ってからの楊秋じゃが、彼はその後も将として活躍が記録されておるんじゃ。

郭淮伝』を見ると、220年頃、鎮西長史・征羌護軍となった郭淮は左将軍張郃と冠軍将軍の楊秋を監督し、山賊の鄭甘・盧水の反乱蛮族を討伐し、すべて打ち破った、とあるんじゃよ。

この時の戦いは楽であったな。楊秋殿も普通に優秀な武将であるから、息を合わせるのも楽であったぞ。

これによって関中は初めて平定され、安定がもたらされた、とあることから楊秋の果たした役割(もちろん張郃殿も)は非常に大きかった、と言えるんじゃよ。

さて、それだけなら魏でそこそこ活躍した武将、で終わるんじゃが、最後に楊秋は不思議なところに名を刻んでおるんじゃ

曹丕を皇帝にするのを促すための文章が刻まれた上尊号碑に、この文章を奉った46人の臣下の名前が刻まれておるんじゃが、この46人の8番目のところに楊秋の名前が刻まれておるんじゃ。

上尊号碑については閻柔のところにも書かれてるので、参考にしてくれると良いぞい。

さて、この8番目、と言う順番じゃが、こう言うのは基本的に序列の高い順から名前が並んでおるんじゃ。三公の名前が最初に入り、そこから曹一族の重鎮、そして九卿や高位の将軍などが続く、と言う感じじゃな。

じゃが楊秋はそう言った序列を無視して曹一族、もちろん張郃殿よりも前のところに名前が載っておるんじゃ。一応前後に同じように何故そこに載っているか良く分からない人物がいるんじゃが、彼らは史書を見ると曹丕と個人的な繋がりがあったことが伺えるので、特別枠と思えんこともないんじゃよ。

じゃが楊秋だけはその辺りの繋がりがはっきりしないんじゃな。とは言えこういった上奏文に名を残しておった、と言うことから間違いなく重鎮の一人であったことが伺えるんじゃろう。

『魏略』によると、楊秋は黄初年間に討寇将軍・特進となり、臨涇侯に封じられ、寿命を終えた、とあるんじゃよ

討寇将軍は俺がかつてなったことのある将軍号で、特進は特に功績ある官吏に与えられる称号で、こちらも北伐の時に俺が受けたことのある称号だな。裏を返すとそれぐらい文帝殿は楊秋殿を買っていた、と言うことになるのだ。

そういうことになりますかのう。多分関中軍閥の中で一番幸せな最期を迎えることができたのではなかろうか。

さて、これで楊秋の人物紹介は終わりじゃな。続けて能力評価と行こうかのう。今回は天舞さん以外の作品に登場じゃな。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 楊秋(20歳)  115 75 65 55
 ↓ ↓ ↓  ↓↓↓ ↓↓
 楊秋(45歳)  150 106 95 84

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楊秋は曹操に降伏後の活躍から軍事、安定の統治も任されておることから統率、どちらも高めの評価としたんじゃ。また早くから曹操とよしみを結び、すぐに降伏して元の爵位などを安堵されておることからも、知謀などもそこそこの評価としたんじゃ。

そこまで極端に高い数値はないが、極端に低い値もない、軍事の高さも考慮するとなんでも任せることのできる、非常にバランスの取れた将と言えるじゃろう。

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 楊秋  67 66 59 63 46

 

鄭問三國志(Max.30)
   武勇   統率   知謀   政治   健康 
 楊秋  15 3 1 2 17

 

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雑談ぢゃ

さて、楊秋の能力評価じゃ。

三国志14は魅力以外がなかなかの評価だな、お主の軍事を少し弱くしたような感じか。  

軍事はコーエーテクモさんの場合もう少し高くても良かったかもしれませんね。

そうじゃなあ、少なくとも魏における重要度では馬騰よりも上だったと思えるしのう。 

上尊号碑に名を残している点からも間違いなく魏の重鎮の一人であるからな。 

それにしても曹操殿も良く反乱者を許しておるのう。これで冷酷だ、とか気に入らんやつをすぐ処刑する、とか言われるのは少し不憫に思うぞい。さて、今回はここまでじゃな。次もよろしく頼むぞい

よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。  

張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。