さて、今回は韓遂の紹介3回目じゃな。今回は董卓死亡以後の韓遂の動きを見ていくとしようかのう。今回は能力評価まで行けるじゃろうか。
さて、今回は韓遂の紹介3回目、今回は董卓死亡後の紹介じゃな。
北宮玉の件と言い、結構韓遂も容赦ない方ですね。
そうじゃな、馬騰の家族も殺害したり、仇敵の間柄になったり、かなりの曲者じゃろうな。それでは見ていくとしようかのう。
よろしくお願いします。
人物紹介
董卓以後の韓遂
さて、董卓がほろんだあと、李傕と郭汜が長安を牛耳るんじゃが、ここで韓遂と馬騰が降伏し、長安に到着するんじゃよ。
韓遂は鎮西将軍となり涼州へ帰るが、馬騰の反乱計画が李傕達に漏れ、韓遂共々樊稠の攻撃を食らい、敗北して逃げるんじゃよ。
『九州春秋』によると樊稠が馬騰と韓遂を撃破し、陳倉まで追撃した時に、韓遂が「天下はひっくり返り、先行きどうなるかわからない。構想の原因はもともと私怨にはなく、国家のことなのだ。足下と私は同郷人、今些細な食い違いはあるが、きっと大きい立場では同一であろう。一緒に仲良く語り合って別れよう。万一思い通りに出会えなかったなら、後々二度と顔を合わせられるかどうか。」と持ち掛けたんじゃ。
樊稠はこれを受け入れ、供回りの騎兵を遠ざけて進みより、くつわを並べて互いのかいなを握り合ってしばらく語り合って別れたんじゃ。
これが樊稠の命取りになってしまうのだから、皮肉な話ではあるな。
馬騰とのいさかい
さて、西方へ戻った韓遂と馬騰は義兄弟の間柄となり、親しくしていたんじゃが、その内互いに侵攻し合い、その最中、馬騰は妻子を失うことになってしまったのは、馬騰の書いた通りじゃな。
じゃが、それを鎮めるのが後に魏の名臣となる鍾繇じゃな。彼の仲裁により、二人の争いは一旦静まるんじゃよ。
これはどっちもどっちと言う感じじゃが、羌族などの異民族と接していたためか、彼等も呂布と同様儒学の概念が薄いように思えるのう。
一旦漢への帰順、そして
さて、鍾繇の尽力により、一旦漢へと帰順した韓遂じゃが、この時期馬騰と韓遂は曹操へ協力して出兵を行っておるんじゃ。
郭援等を討伐する時は、馬騰の息子の馬超指揮の下で軍を率いておったようじゃな。
じゃが、そんな蜜月期間も終わりを迎える日が来るんじゃ。そう、曹操の漢中征伐に対して疑いを持った馬超等と反乱を起こしてしまうんじゃよ。
当初曹操に優勢に戦ったりもした馬超達じゃが、さすがに曹操も強かで、徐々に戦いを膠着状態へと持っていくんじゃよ。
曹操殿はどうもこの時2回、韓遂と会談を行っているようじゃな。
曹操は韓遂の父と同年に孝廉に推挙されたらしく、また韓遂とは同時期に旗揚げした仲でもあり、そう言った関係から会談は実現するんじゃ。じゃがこれは賈詡の罠だった訳じゃな。
韓遂は一回目の会談を曹操と行ったんじゃが、。軍事には言及せず、都における昔のことなどを語り、手を打って笑い楽しんだのみだったんじゃ。
馬超達は当然会談の内容が気になるから、帰ってきた韓遂に何をしゃべっていたのか、聞くんじゃよ。じゃが先に書いた通り、昔話しかしておらんことから、韓遂も「いや、特に何も話していないぞ。」としか答えられんのじゃ。
じゃがこれにより、馬超等は韓遂に対して疑いを持ってしまうんじゃな。
ちなみに2回目の会談の時に諸将が、馬止めの木柵を用意し、防御をしておいた方が良い、と進言を受けるんじゃよ。
『魏書』この時は曹操を一目見ようと、賊将や蛮族の見物人たちがたくさんいたんじゃ。そして彼等に対し曹操は以下のように言うんじゃよ。
「お前たちは曹公を見物したいのか、わしもやはり人間の仲間だぞ。四つの目、二つの口がある訳ではない。ただ少し知恵が多いだけじゃ。」
暗殺や襲撃の危険もあるだろうに、曹操殿もかなり豪胆なことをやっているのだな。この時に魏軍の陣容を見せつけられた異民族たちは縮み上がった、と言うのだ。
これにより、ますます曹操軍の意気は上がり、逆に疑心暗鬼になっておった馬超達の軍は瓦解へまた一歩、歩を進めてしまったように思うんじゃよ。さて、今回はここまでじゃな。次で韓遂の紹介は終わると思うぞい。
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