さて、今回は成公英の紹介じゃな。彼は韓遂に付き従い、後に曹操に下ることになるんじゃが、そこには色々なことがあったんじゃよ。さて、彼について見ていくとしようかのう。
さて、今回は成公英の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。成公英殿か、お主が好きそうな相手と言えるのではないかな。
演義には出てこない人物ですよね。師匠好みと言うと、義に厚いタイプですか。
正解じゃな、彼は『魏略』によると、先だって名前の出ておった郭憲や文聘と言った人物と同じグループで立伝されておるんじゃ。いずれも義士と言える人物達じゃな。
なるほど、確かに師匠が好きそうな人物ですね。それでは紹介をお願いします。
うむ、それでは成公英について見ていくとしようかのう。
人物紹介
韓遂の腹心として
成公英についてじゃが、『魏略』によると彼は金城の出身、とのことじゃ。そして中平年間(184~189年)の間に韓遂に付き、腹心となったんじゃよ。
潼関の戦い、そしてその後の魏との戦いで敗れた後、多くの部下達は散り去ったが、成公英だけは一人付き従った、とあるんじゃ。
さて、そんな状況で娘婿であった閻行が韓遂を攻撃してきた。『典略』によると、撃退はしたが韓遂は嘆息し「男子が苦難の中にある時、まさか災いが姻戚から起こるとは・・・」と言うんじゃ。そして成公英に対して次のように言うんじゃよ。
「今、親戚は離反し、人数は一転して少なくなった。羌族の中を通って西南方に向かい、蜀に行くより仕方ないぞ」
それに対して成公英は次のように答えるんじゃよ。
「軍を起こしてから数十年、現在は疲弊し敗北したとは言え、どうして自分の家を捨てて他人を頼ることがありましょう。」
そこで韓遂は問ううんじゃ。
「わしは年を取った。君はどういう手を打つつもりなのかね。」
成公英の答えは以下の通りであったんじゃ。
「曹操は遠征できず、来るのは夏侯淵だけです。彼の軍勢は我が軍を追跡できず、また長く留まっていることもできません。しばらく羌族の中で休息して、彼らの去るのを待ち、以前の部下を呼び寄せ、羌族を落ち着かせ寄せ集めますれば、まだ手段があるでしょう。」
韓遂が子の計略に従うと、随行する者が男女合わせてなお数千人おった、と言うことじゃな。そして羌族は以前から韓遂からの恩があったことから、彼を守り保護したんじゃよ。
羌族は異民族特有の話になるが、居留地が一定の場所に留まらん。それ故、彼らの中に紛れられると探し出すのは至難となるのだ、悔しい話だがな。
そして成公英の進言するように、夏侯淵殿はいつまでも留まることはできんかった。そこで夏侯淵は閻行を留め置いたのだ。
韓遂は羌族の中で力を蓄え、閻行を攻撃しようかと考えておった。しかしここで韓遂はその寿命を終わらせてしまったんじゃよ。
曹操への降伏
さて、韓遂を失った成公英に残された道は曹操への降伏じゃった。
曹操は彼に会って大変喜び、彼を軍師とし列侯に取り立てるんじゃ。
曹操と共に狩猟に出かけた時、三匹の鹿が目の前を通り過ぎたことがあったんじゃ。
曹操が成公英に命じてそれを射させると、三発三中、全て弦の響きに応じて倒れたんじゃ。
見事な腕前に、曹操が手をたたきながら彼に向って言うんじゃ。
「韓文約に対して忠義を尽くしたと言って良いが、わたしに対してはダメかね?」
成公英はそこで馬から降りてひざまずき申し上げるんじゃ。
「明公にはうそを申せません。仮に私の元の主君が健在でありますれば、実際ここへは来ませんでした。」
かくて涙を流しむせんだんじゃよ
曹操は彼の偽りのない心を誉め、彼を愛し尊敬したんじゃよ。こう言うところはさすがに器が大きいと言えるのでは、と思うんじゃ。
関羽も、もし劉備が亡くなっていたとしたら同じようになっていたかもしれんな。
そう言うifがあれば、ちょっと面白いことになっておったかもしれんのう。
その後、漢から魏へ時代が変わる時、河西に反逆の企てあったんじゃ。これに成公英は派遣されるんじゃ。この時は張既の参軍となるんじゃが、張既は伏兵三千を配置し、成公英にはわざと負けたふりをして退却させ、敵を引き付けるように指示するんじゃ。
俗に言う釣り野伏の釣り役じゃな。成公英はこれを見事にこなし、敵を前後に挟み撃ちすることに成功するんじゃよ。じゃがこの後すぐに成公英も病気で亡くなってしまうんじゃ。
さて、成公英の人物紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼は全作品に登場じゃ。
能力評価
成公英は韓遂の下、そして曹操の下どちらでも参軍、軍師などといっや役割を求められ、実際にそれで実績もあることから、知謀を一番高く評価したんじゃ。
また、見事な弓の腕前、そして関中武将が多く持つ軍事的才幹の高さから軍事も高め賭したんじゃ。ただ率いる兵数はそこまで多くなかったことから、統率はやや抑えめじゃな。
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雑談ぢゃ
さて、成公英の能力評価じゃよ。
これは何となく、天舞よりは三国志14の方が近い評価になっておるな。
天舞さんは参謀とするには、少し策謀が少し低いイメージがありますね。
そうじゃな。三国志14の方が知謀が高めで、自分の思い描く成公英に近いイメージじゃな。
まあ実際、関中軍閥の中では貴重な軍師枠だからな。こう考えると宋建陣営は結構粒ぞろいだな。
そうじゃな、韓遂に付き従う人間の数の多さを考えると、本当に劉備を彷彿とさせるものがあるのう。この辺りは本当に興味ぶかい話じゃよ。さて、今回はここまでじゃが、成公英の紹介、如何じゃったかな。良ければ次もまたご覧くだされ。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。