さて、今回から揚州方面の群雄を紹介していこうかのう。まず紹介するのは陳温。揚州刺史だったんじゃよ。彼はさほど有名ではないが、ある人物と関わりのある人物なんじゃよ。没年ははっきりしておらんのじゃが、またその辺りの理由も見ていくとしようかのう。
さて、今回から揚州方面の人物の紹介じゃな。最初は陳温じゃな。
どうも、張郃だ。揚州刺史と言うと劉繇が有名だが、この陳温もなかなか重要な人物であったな。
劉繇さんのまえの揚州刺史と言うことは遠からずして亡くなった、と言うことですか。
そうじゃ、そして彼がいつどのように亡くなったのか、ここが難しいところなんじゃよ。
と言うことは韓遂の時のように幾つかの違いがあると言うことですね。
そう言うことじゃな、それでは見ていくとしようかのう。
人物紹介
さて、陳温じゃが、彼の交友関係をまずは見ていくとしようかの。まず、陳温はかねてから曹洪と親しくしておったんじゃ。
『曹洪伝』によると、丁度曹操が反董卓連合軍に参加し、滎陽にて徐栄軍に破られるんじゃ。何とか退却に成功する曹操と曹洪じゃが、兵を失ったことで、何とかしないと連合軍に戻ることもできん状況じゃ。
そこで、かねてから親交のあった陳温のところに赴いて兵を慕り、盧江郡の精鋭武装兵二千を手に入れ、龍亢にて曹操と合流するんじゃ。
まあせっかくかき集めたこの兵達も、反乱を起こして曹操軍はまた大分兵を減らしてしまうんだがな。
まあ、これに関しては陳温に責任はないじゃろうがのう。
さて、それからほどなくして陳温は亡くなるんじゃが、その内容に関しては異説があるんじゃな。
まずは袁術伝じゃが、袁術が陳留に侵入してきた時、曹操は袁紹と協力してこれを大いに撃破するんじゃ。
そして九江に逃げ込んだ袁術は揚州刺史の陳温を殺害し、実質的な支配者となった、とあるんじゃよ。
一方『英雄記』を裴松之が調べてみたところ、陳温は病死した、とあり、袁術に殺害されてはいないんじゃよ。
さて、どちらが正しい情報であったかな。とは言え、袁術や袁紹をことさら貶める意図が陳寿になかった、とは言えないな。
そうじゃな、まあ事実は分からんが、袁術は董卓同様実態以上に悪名を被っている可能性は有り得るからのう。
さて、陳温の人物紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行こうかの。もちろん彼はワシの作品のみの評価じゃな。
能力評価
陳温は兵二千を曹操に渡す等、ちゃんと揚州を統率していると言えそうなことから、統率、そして政治を高めの評価としたんじゃ。
じゃが実績は少ないために総合的にはちと抑えめじゃな。
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雑談ぢゃ
さて、陳温の能力評価じゃよ。
統率と政治がそれなりに高いのは、ちょっと曹操殿の補正がかかっている感じがするなw
曹操さん、曹洪さんと知り合いで仲が良かった、と言うのはちょっと評価に絡んでそうですね。
まあ、見る目があった、と言う判断をした訳だからそこは否定できんかのう。
実績がない以上、そう言う視点を見ざるを得んのは仕方ないであろうな。
そうじゃな、とは言えそれ以外にもあっさりと揚州刺史に任命されておることから、普通に優秀であったと思われるんじゃよ。、示されておる訳じゃ。さて、今回はここまでじゃが、陳温について如何じゃったかな。良ければ次もまたご覧くだされ。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。