さて、今回は新しい陣営の紹介じゃが、周昕の紹介じゃな。字は大明、生没年は不明じゃ。彼は既に一回出ていると思うんじゃが、もしかしたら覚えておらん人もいるかもしれんのう。
さて、今回は周昕の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。周昕は袁紹殿の陣営にいた周昂の兄にあたる人物だな。
確か曹操が揚州に兵を募集しに行ったときに協力してくれた人物ですよね。
うむ、演義とかには確かちょっとだけやられ役で出ていただけじゃと思うが、何気に結構面白い人間関係の持ち主じゃな。
一度その辺りの関係をまとめてみても面白いかもしれんのう。それでは周昕について見ていくとしようかのう。
人物紹介
若き日の周昕
さて、若き日の周昕じゃが呉志『孫静伝』の裴松之注『会稽典録』に記述があるんじゃよ。
字は大明で、若い頃に都に登り、太傅の陳蕃に師事した、とあるんじゃ。
陳蕃殿は後漢の大政治家の一人だな。強大な権力を有して皇帝殺害までやる等、跋扈将軍と呼ばれた梁冀に対してもおもねらず、剛直で清廉な生き方を貫き、最後は党錮の禁により、目の敵にされていた宦官連中の手によって倒れた人物だ。
ちなみにこの時、党錮の禁による追及から逃げる張倹を孔融が匿ったことは、過去ちょこっと書いているんじゃよ。
さて少し横道にそれてしまったが『会稽典録』の続きじゃな。陳蕃に師事した周昕は広く種々の書物を読み、風占いに通じて災異による未来予知に巧みであったと言うんじゃよ。
その後太尉の役所に呼ばれて職務に付き、正式の官に推挙されて高い席次で及第した後、丹楊太守となったんじゃよ。
孫一族との戦い
さて、丹陽太守として周昕がやっておったことで記録が残っておるのは、曹操への協力じゃな。董卓との戦いで兵を失った曹操が陳温への協力を依頼した時に、周昕は兵を供出して、勢力維持の援助をしておったんじゃ。
何度か兵を送り、合わせて一万以上の兵を派遣したとあることから、かなり協力しておったようじゃな。
じゃがその一方で、袁術が淮南に根城を定めた時は、彼の淫虐差を嫌い、交わりを断ったんじゃよ。
この曹操と袁術、両者への対応の違いから、袁術には人望がなかったことが分かるのではないか。
じゃが当然袁術はこれに怒り、呉景を派遣させて丹楊を攻めさせるんじゃ。
真偽ははっきりせんが『献帝春秋』によると、呉景は周昕をなかなか落とすことができんかったんじゃ。
そこでついには呉景は民衆たちに「周昕に従ったりした者は全て死刑にする」とふれを出してしまうんじゃ。民衆を人質に取った脅しじゃな。
周昕は「私は不徳であるにしても、民衆たちに何の罪があるのか。」と言い、兵士を解散させると故郷の会稽郡に帰るんじゃよ。
これはさすがに献帝春秋の作者の手による創作じゃと思うがな。こんなやり方で民衆の支持を呉景が受けられるはずもなく、まともに統治できんと思うんじゃよ。
さて、少し時代が下り、孫策が会稽郡太守の王朗を攻めた時に、王朗は周昕に兵を率いて打って出させたんじゃが、周昕等は孫策に撃ち破られ、斬られてしまうんじゃよ。
この最後の部分のみ演義で描写されている形じゃな。さて、周昕の人物紹介はここまでじゃ。続けて能力評価と行こうかの。今回はワシ以外に三国志14にも出ておるようじゃの。
能力評価
周昕は風占いに長け、災異を読み取ることができたと言うことから、知謀を高めの評価としたんじゃよ。また中央の官でも優秀な席次であったことから政治も高めの評価なんじゃ。
最後に孫策に敗れ、斬られていることから、軍事は抑えめじゃな。ただ全体的にそこそこ優秀な評価と言えるのではなかろうか。
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雑談ぢゃ
さて、周昕の能力評価じゃな。
お主と三国志14どちらも同じような傾向を示しておるようじゃな。
軍事、武力が一番低く、知謀、知力が一番高いと言うのは確かに煮た傾向を示していますね。
そうじゃな、演義だけでは三国志14のような評価にはならんであろうから、コーエーテクモさんは正史の事績をきちんと読んで、この評価に至ったのではなかろうか。
あまり目立つことはないが、優秀な人物と言えるであろう。こう言う人物が戦乱で失われていくのは、非常に残念な話であるな。
弟の周昂も統率に優れた人物であるからな。なかなか興味深い一族であるのう。さて、今回はここまでじゃが周昕の人物について、如何じゃったかのう。良ければ次もまたご覧くだされ。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。