さて、今回は盛憲の息子、盛匡の紹介じゃな。字や生没年は不明。許貢や孫一族に翻弄された親子、盛匡は父が孫権に殺害された時にどうなったのか、順に見ていこうかのう。
さて、今回紹介するのは盛匡じゃな。盛憲の記述、どうやら自分の持っている書物じゃと情報が不足しておったようじゃ、申し訳なかったのう。
一応ぱっと変えられるところは変更しておいたぞい。
どうも、張郃だ。まあ史料がない分はどうしようもない。都度修正が利くのも便利の良いところではないか。
呉郡や会稽の豪族を殺害していたのは孫策ではなく、孫権だった、と言うことなんですか。
どうもそう言うことらしいのう。もしかしたら有力豪族同士の争いとかもあったのかもしれん。孫権に付いた豪族達によって排斥されたのかもしれん。
ちょっと嫌な話ですね。
さて、そんな中孫権によって父の盛憲は殺害されたようじゃが、息子の盛匡はどうしたのか。見ていくとしようかのう。
人物紹介
さて、大仰に書いたが、盛匡についての記述はわずかじゃな。
曹操が盛憲を騎都尉として呼ぼうとして果たせなかった訳じゃが、盛憲と行動を共にしていたらしい盛匡じゃが、呉志『宗室伝』の裴松之注『会稽典録』についての記述を見ていくと、この時盛匡は魏へ亡命したようじゃな。
亡命できたのは幸いであるが、本当に一族事族滅の危機があった、と言うことだな。
さて、魏へ亡命した後の盛匡だが、そこまで目立つ実績があったわけではないんじゃが、順調に昇進し、征東司馬にまで昇進したようじゃな。
司馬は将軍府の軍事を担当する軍事担当者だな。征東将軍直属だから、時期的に張遼殿の下におったはずだな。
ちなみに征東将軍直属の配下としてはNo.3ぐらいの立場じゃのう。さて、盛匡の記録はこれで終わりじゃな。
優秀な武官であった訳だが、記録はさすがにそこまで多くはないのだな。
そうじゃな、さて盛匡の人物紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行こうかの。今回はワシの評価のみじゃな。
能力評価
盛匡は亡命後、征東将軍の下で司馬にまで上り詰めていることから、父よりは軍事面方面に克った評価としたんじゃよ。
逆に政治面は未知数なため、そちらは父に比べると未知数とのことから少し抑え目の評価としたんじゃよ。ただ総合的には父の名を辱めなかったと思うんじゃ。
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雑談ぢゃ
さて、盛匡の能力評価じゃな。
父とはちょっと傾向が違うが、彼はまた補佐役として優秀な能力と言えような。曹丞相は良く分かっておる。
それはどう言うことでしょうか。
うむ、張郃殿のようにオールマイティに何でもできる武将ならあまり関係ないかもしれんが、そうでない武将も多い、と言うことじゃな。
大体お主の評価から、張遼殿がどういう傾向の評価かも分かるからな。
そう言うことじゃな。さて、今回はここまでじゃが、盛匡の人物について如何じゃったかな。良ければ次もまたご覧くだされ。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。