三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

劉曄(りゅうよう) 字:子揚(?~?)その1

さて、今回紹介するのは劉曄じゃな。後漢の皇族、恐らく継承権も持っていたであろう人物でありながら曹操に仕え、漢から魏への時代の移り変わりを直に体験した、異色の参謀と言えるじゃろうな。

 

さて、今回は劉曄の紹介じゃよ。

どうも、張郃だ。まさか・・・ここで劉子揚殿が来るとはな。お主どうあっても陸氏での天下統一を狙わせようとしておらんか?(じろり) 

そんなに劉曄さんは凄かったのですか?確かに魏後期の参謀として結構名前は出ていた気がしますが。

そんなに凄いのが劉曄なんじゃよ。例えば前半で荀攸賈詡郭嘉等が参謀として活躍していたのに匹敵するじゃろうな。参謀としては少なくとも司馬懿よりはるかに多くの献言を帝にしている、と言えるであろう。

まあそれ以前に仲達めが参謀らしいことをしておったのは曹公殿のわずかな期間でしかないからな、あやつは基本自分らと同じ将軍よ。 

そうやって聞いていると凄い気になりますね。

うむ、それでは劉曄について早速行くぞい。

人物紹介

幼少時の武勇伝

さて、劉曄の出自じゃが、彼は光武帝劉秀の子、阜陵王劉延の後裔なんじゃ。父は劉普で兄が劉渙なんじゃよ。バリバリの皇族なんじゃな。

既に劉曄についてはあちらこちらで書いているので、もうわかっている人もいると思うが、劉曄は帷幄で策を巡らせる、だけの人ではない、実は結構な武闘派でもあるんじゃよ。

劉曄が7歳(兄の渙が9歳)の時に、はあが病気に苦しんだんじゃ。

母は臨終の時に兄弟二人に次のように言い聞かせたんじゃ。

「父の側近は、人に取り入って悪事を引き起こす性質を持っています。我が身が死んだあと、家を無茶苦茶にするに違いないと心配です。お前たちが大きくなって彼らを除くことができれば、私には思い残すことはありません。」

劉曄は13歳になると、兄の渙に言うんじゃ。

「亡き母のお言葉を実行しなければなりません。」

兄はどうしてそんなことができよう、と言うんじゃが、劉曄はすぐさま奥の部屋に入って側近を斬り殺すと、母の墓前に報告にあがるんじゃよ。

13歳にして親の遺言を実行できる、孝行と言えばそうかもしれんが、これは色々と面倒な話だな。 

母親の遺言通り、本当に側近が悪い人物だったのか、気になりますね。

さよう、悪人でないとするなら劉曄は母の遺言を守るために、敢えて殺人を犯したことになる。じゃが劉曄は人を見る目を持っておる、じゃからワシとしては将来の禍根になる、と判断したのではないかと思っているんじゃよ。

この事態に家人達は仰天し、劉普に事の次第を告げるんじゃ。劉普は激怒し人をやって劉曄を追いかけさせたが、劉曄は帰ると頭を下げて謝り、次のように言うんじゃよ。

「亡き母上のご遺言です。お願いもせず勝手に行動した罰は存分に受けます。」

これで劉普の怒りはすっと解けるんじゃ。劉普は劉曄を見どころがあると思い、結局咎めなかったんじゃよ。

上では劉曄の判断、とも書いたが、仮に悪人でなかったとしても母の遺言なら斬る、と安易な方に迎合しない、意思の固さを感じるエピソードとも言えるんではなかろうか。

若き日のエピソード

その少し後、汝南の許劭が揚州に避難してきた時に劉曄に会ったことがあるんじゃよ。許劭は「月旦評」と言う人物批評で有名な人物じゃな。

 

そんな許劭は劉曄を一目見てこう言ったんじゃ。

「君(劉曄)には時の君主を補佐する才能がある。」

君主を支える宰相・側近として最大級の評価と言えるじゃろう。もしかしたらこの批評が後の劉曄の行動規範となったのかもしれんのう。

さて、そんな劉曄じゃが皇族であるが故の災難に見舞われる。そう、既に書いておるが鄭宝の反乱じゃ。

 

鄭宝は人民を追い立てつつ、長江の南へと行くつもりであったが、劉曄が高貴な家柄の名士であったことから、劉曄を脅迫しこの計画の首謀者にしようとしたんじゃよ。

じゃが上の鄭宝の所に書いてあるように、劉曄は策を以て自ら鄭宝を斬り殺し、鄭宝に従っていた軍兵をすべて降伏させることに成功するんじゃ。

サラッと書いているが、なかなかえげつないことをやり遂げているな。

そうじゃな、母の遺言を守ったことと言い、やると決めたら迷わず行動する、ちょっと特異な才能の持ち主のように見えるのう。

劉勲への譲渡

さて、鄭宝の部下達は皆劉曄に従い、劉曄を主君としていたんじゃが、劉曄は漢王室が衰微していくのを目撃しており、そんな中で自分が兵を持つことを望まなかったんじゃよ。

恐らく皇族の自身が兵を持つことでいらぬ乱を引き起こし、更に漢室が衰微してしまうことを恐れたんじゃろうな。

劉曄は配下の兵を当時の盧江太守であった劉勲に預けようとするんじゃ。

当然兵力が増強されるわけじゃから劉勲側には断る理由はない、じゃがなぜわざわざ手に入れた兵士を手放すのか、劉勲は当然訝しがるんじゃよ。

劉曄はこれに応えて言うんじゃ。

「鄭宝が規律を立てなかったため、彼の部下達は平素から略奪によって利益を得ていました。私には元来資力がありませんから、彼らをきっちり取り仕切るとなりますと、必ずや怨みを持たれ、永らえることは困難でしょう。だから任せるのです。」

資力(財力)が無いから兵達を養うことができない、と言う意見じゃな。まあこればかりはどうしようもないからのう。

さて、この劉勲じゃが長江・淮河一帯で強大な勢力を誇っており、孫策も迂闊には手を出せんかったんじゃよ。孫策はそれを不愉快に思い、策略を以て何とかしようと考えるんじゃ。

孫策は劉勲に使者をやってへりくだった言葉と手厚い贈物をもって、書面で劉勲に提案したんじゃな。

「上繚の部族民が度々我が国を馬鹿にいたしますので何年間も腹を立ててまいりました。やつらを攻撃するにも交通が不便であります。願わくば大国のお力添えでやつらを討伐したいと存じます。

上繚は大変豊かですから、アレを手に入れれば国を富ませることができます。

どうか兵を出して、外部からの援助をしてくださいませ。」

劉勲はこの話を信用し、また孫策からの贈物を受け取り有頂天になるんじゃ。また内外の官吏も全て慶賀したが、劉曄だけは別だったんじゃ。

「上繚は小さいとは言え、城は堅く濠は深く、攻めるにむつかしく守りにやさしいところです。十日で片を付けられないならば、外地で兵が疲弊する上に国内が空になります。

孫策が国内の空をついて我が国を襲撃すれば、残された者達だけで持ちこたえることは不可能です。それこそ将軍は進んでは敵に挫かれ、退くにも帰る場所がないという結果になります。

もし軍をどうしても出すとなると、災難は今にも訪れるでしょう。」

劉勲はこの意見を聞き入れず、結局留守を孫策に攻め落とされ、劉勲は旧知の仲である曹操の下に逃げるんじゃよ。劉曄は劉勲と同じか。意見を聞き入れなかった劉勲を見限って先に曹操の下へと向かったのではなかろうか。

さて、まずは劉曄の紹介、第一幕じゃな。若い時点で既に知性の煌きを感じさせるエピソードがゴロゴロ転がっておる。まこと魏は恐ろしい国だて・・・。

 

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