三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

劉曄(りゅうよう) 字:子揚(?~?)その2

さて、今回は劉曄の紹介2回目じゃな。

今回は曹操時代の劉曄を中心に見ていくとしようかのう。曹操の下で彼も知略は更に冴え渡ることとなるんじゃよ。

 

さて、今回は劉曄の紹介、2回目じゃな。

どうも、張郃だ。劉曄殿も逸話は多いからな、中には本当かウソか分からん、いや明らかに偽りと分かる話もあるがな。 

偽りと言える話、少し気になりますね。

ふむ、まあその辺りの話はもう少し先になるから、しばし待たれよ

師匠も内容は分かっているのですね、なんかちょっとずるいです

まあそんなに時間がかかるものではない、何事も順序と言うものがあるんじゃから少し堪えるんじゃ。

分かりました。引き続きよろしくお願いします。

人物紹介

魯粛との友誼

以前にも少し書いておるが、劉曄は後に呉の重鎮となる魯粛と友人であったんじゃな。

その劉曄が鄭宝の下に一緒に行こうと誘いをかけるんじゃ。詳細は鄭宝の紹介の所に書いているが、魯粛はその意見に賛同し「北へ」行こうとしておったんじゃよ。

 

北へ、と言う話を聞くと曹丞相の方へ行こうとしているように感じるな。劉曄殿と一緒に来ていれば面白かったのに、残念な話だ。 

じゃが結果として劉曄曹操の下へ行き、魯粛孫権に仕えるようになったんじゃな。互いに魏呉の重鎮となるのはなかなかにすごい話と言えるであろうな。

さて、それでは劉曄の具体的な逸話から見ていくとしよう 

陳策の討伐

正確な年代ははっきりしないんじゃが、曹操が寿春に到着した時、盧江の郡境に陳策と言う山賊がいて、数万の仲間を集め、要害をたてに守っておったんじゃ。

以前部隊長が派遣されて彼を攻撃したんじゃが、彼を破ることができんかったんじゃよ。

そこで曹操が配下の者に討伐すべきかどうかを質問するんじゃが、皆前回やられていることから「山は険しく谷は深く狭く、守備は容易で攻撃は困難です。そのうえこれがなくとも損害となるほどでなく、これを手に入れても利益となるほどではありません。」と答えるんじゃよ。

じゃが劉曄は他の人と違っておった。

「陳策ら小童らは騒乱に付け込んで要害に入り込み、互いに頼りあって強がることになっただけです。

爵位を与える命令や権限威信によって仲間を服従させている訳ではありません。

前の場合、部隊長と言う権限が軽すぎた上に、中国はまだ平定されておりませんでした。だから陳策は要害に立てこもって守る男気があったのです。

今、天下はほぼ平定されまして、後から服従すれば先に処罰されるのです。そもそも死を恐れ恩賞に走ることは、愚かな者も知恵あるものも同一です。

だから広武君は韓信のために策略を立て、宣伝を先にし行動を後にすることによって隣国を服従できる威光と名声があると考えたのです。

まして明公のおん徳は東方を征伐すれば、西方が残念がるほどであります。まず恩賞を掲げて降伏を呼びかける策をとられ、大軍で彼等に向かえば、命令が宣布された日に郡門は開かれ敵は自分から潰れましょう。」

曹操はこの意見を受け入れ、勇将を前におき、大軍を後に置き、到着するや陳策に大勝すること劉曄の予測した通りになった、とあるんじゃ。

相手の実情を正確に把握し、そこから行動予測も当てておる。参謀として見事なまでの予見力と言えるのではなかろうか 

曹操の側近として

さて、これは『傅子』に書かれた記述なんじゃが、曹操劉曄を呼び寄せた時期に他にも蒋済、胡質等揚州の名士と呼ばれる人物5名を呼び寄せたんじゃ。

都への途中、駅亭に宿をとるといつも曹操は彼等との議論に華を咲かせるんじゃ。曹操も彼らをだいぶ気を使っておった、と言うことじゃな。

内は出身地の過去の優れた人物、賊を防ぐ堅固な守備、軍隊お動かす時の前進・撤退の適切さ、について議論し、外は敵の変化、敵味方の裏表、戦闘の術を推論し、朝から晩まで飽きもせずに議論したんじゃ。

しかし劉曄だけは車の中に横になったまま、最後まで一言も発しなかったんじゃ。曹操はいつも座談で質問をし、彼らの会話を聞いておったんじゃが、ある時曹操が口を閉ざし、質問をしなかった時があったんじゃ。

その時に初めて劉曄は口を開き深遠な言葉を用いて曹操の心を動かしたんじゃよ。

その趣旨じゃが、本当に深遠な言葉は精神に求めるもので、一人だけの会見によってその機微を十分に語らせるべきものであって、むやみに座談させるべきではない、と言うものだったんじゃ。

ちと、難しい話なんじゃが、これは座談させると、相手の意見を潰すための意見、本人の本質からずれた意見になることを恐れる、と言うことではなかろうか。TVでの討論会とかでも良くある、単に議論に勝つための議論に陥るパターンじゃな。

劉曄は意見が正しいか間違っているかは別にして、まずは存分に本人の意図をきちんと語らせ、本質を見極めるべき、と考えたのではなかろうか。

曹操はこの意図を理解し、劉曄の才能を評価したのか、劉曄以外の4人を県令としたんじゃが、一人劉曄のみ腹心となり曹操の側に仕えるようになったんじゃ。

曹操は何か迷いが起きる度、劉曄に手紙を送り質問をしたんじゃ。多い時は一晩に10通に至ることもあった、と言うんじゃよ。

張魯討伐

次に劉曄の名前が出てくるのは215年、張魯討伐の時じゃな。

劉曄は主簿となり曹操に付き従う。じゃが漢中は険しい山が多く登りにくい、さすがの騎馬もこの地形じゃとあまり生かせんのじゃよ。

更に秦嶺山脈を越えての進軍じゃから兵站維持が非常に厳しいんじゃ。さすがの曹操も弱気となり、「速く帰るべきか。」と言う始末だったんじゃ。

劉曄は今退却すると敵の追撃を受けて軍に被害が出ると判断し、攻撃すべきと進言するんじゃよ。

劉曄により攻撃が続行され、ついに張魯は逃走し、漢中は制圧されたんじゃ。

続けて劉曄はすすいで意見を言うんじゃ。

「明公は歩兵五千によって董卓を征伐しようとなされ、北方は袁紹を南方は劉表を征討されました。

中華の9つの州と100の郡の内、十中八まで併合され、ご威光は天下に轟き、ご威勢は国外をおののかせております。

今漢中を攻め落とされ、蜀の人民はその噂に肝をつぶしじっとしていられない有様です。このまま進軍すれば蜀は布令文を回すだけで平定されるでしょう。

劉備は人傑ではあっても愚図であり、蜀を手に入れてもまだ日が浅く、蜀の人民はまだ彼を頼りにしていません。」

と言って蜀侵攻を進言するんじゃが、曹操も本国でやり残したこと(自身死後の国政等)があり先に進むことができんかったんじゃな。

『傅子』によると後日、曹操が蜀の内情を聞き、劉曄を招いて尋ねたんじゃ。

「今からでも攻撃して良いか、どうじゃ?」

劉曄はこれに応えて

「すでに蜀は落ち着き、時機を逃しました。攻撃すべきではありません。」

これにより、曹操は後を夏侯淵等に任せて帰還するんじゃよ。

さて、ちと長くなったので今回はここまでじゃな。劉曄の伝説はまだまだ続くぞい。

 

 ↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい