三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

王朗(おうろう) 字:景興(?~228)その1

さて、今回紹介するのは王朗じゃな。徐州東海郡郯県の出身で、鄭玄同様学問に親しんだ人物でもあるんじゃ。字は景興、没年が228年と言うのは深い意味があるんじゃよ。

 

さて、今回は王朗の紹介じゃよ。

どうも、張郃だ。今回紹介するのは王朗殿か、演義では悲惨な最期を迎えた人物だな。 

孔明との舌戦に敗れて悶死してしまうんですよね。ですがあれは演義の創作ですよね。

確かにそうなんじゃが、何故あそこで王朗があてがわれたのか、それは王朗の没年が228年と諸葛亮の北伐時期と重なっておったからじゃな。

史書で228年いなくなることが分かっているから、舌戦の相手にされた、と言うことか。208年の時に曹丞相に斬られた劉馥殿と同じだな。演義の作者も練りこんでいるのは分かるが、使い方があくどい。 

実際にはそんななくなり方ではありませんよね?

もちろんじゃ、それでは王朗について早速見ていくぞい。

人物紹介

若き日の王朗

王朗は字を景興と言い、経書に通じていることから郎中に任じられ、菑丘の長に任命されたんじゃよ。

大尉の楊賜を師と仰いでいたんじゃが、楊賜が逝去したので、官を捨てて喪に服したんじゃよ。

揚賜は楊脩の祖父、楊彪殿の父に当たる人物だな。王朗はそのような人物と懇意にしていたことになる。 

 

 

この辺りの人間関係は複雑じゃが、それにより何か見えてくるものもあるかもしれんのう。きちんと見ていくとしよう。

ついで孝廉に推挙され、三公府から招聘されるんじゃが、これには応じなかったようじゃな。ついで徐州の陶謙が王朗を茂才に推挙したんじゃ。

王朗は陶謙の治中となったんじゃが、この時趙昱と共に陶謙に進言したんじゃ。

「『春秋』の道理からすると、諸侯に対してこちらの意思を通すには勤王ほど良いものはありません。

今、天子ははるか西の都におわします。よろしく使者を派遣して王命を謹んで承るべきです。」

陶謙はこの意見を受け入れ、趙昱に上奏文を持たせて長安に向かわせたんじゃ。この時の上奏を嘉し、王朗は会稽太守に任じられたんじゃ。

会稽太守として

王朗の『家伝』によると、会稽では古来より秦の始皇帝を祭っており、その木像を夏の禹と同じ社に置いていたんじゃな。

王朗は着任すると、秦の始皇帝は徳のない君主であったから、祭祀にふさわしくないと判断し、結果それを取り除いたんじゃよ。

郡にいること4年、郡民をいつくしんだ、とあるんじゃ。

王朗殿の伝を見ていくと徳を重要視していることが目に付く。本人も温和な人物であったが、徳治を心掛けていた、と言うことであろうな。

そうじゃな、これにより軍を安定して治めていた、と言うことじゃろうからな。じゃが当然これで終わりのはずがない、次からは孫策との戦いを中心に見ていくとしようかの。少し短いがキリが良いので今回はここまでじゃ。

 

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