三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

王朗(おうろう) 字:景興(?~228)その2

さて、今回紹介するのは王朗の2回目じゃな。今回は孫策の侵攻とその後曹操の下に下っての話が中心じゃな。

 

さて、今回は王朗の紹介2回目じゃよ。

どうも、張郃だ。孫策のところも史書により内容が違ってきているようだな。 

書物によって内容が違うと評価の際に迷われますよね。

確かにそうじゃな、王朗は演義の印象が強いことから、どうも軽くいてしまいがちなんじゃよ。じゃから慎重に見ていかねばならんじゃろうな。

魏国で三公にまで上っていると言うのも大きいであろうな。演義と正史のギャップが大きすぎる。 

今のところ有能エピソードしかありませんよね。

そうじゃな、それでは王朗について続きを見ていくとしようかのう。

人物紹介

孫策の侵攻

孫策の侵攻が始まったことに対し、王朗の功曹虞翻は、力では防ぐことが不可能だから、その鋭鋒を避ける方が良いと判断し、進言したんじゃ。

じゃが、王朗自身は身分が漢の官吏であることから城邑を保持すべきであると考えたんじゃよ。

さて、この孫策との戦い、演義じゃとあっさり王朗が敗れたように見えるが、史書の内容を拾い集めていくとどうもそう簡単な話ではないようじゃな。

孫静伝』を見ると、王朗は固陵で孫策の進出を食い止めており、孫策は何度も川を渡って戦いを仕掛けるんじゃが、勝つことができずにいた、と言うんじゃよ。

防衛側の方が有利な城攻めとは言え、地形をうまく利用して川を盾に何度も孫策の侵攻を防いでいる。ただの戦下手ではできんことだな。 

じゃが、ここで孫静が査瀆と言う地を足掛かりに敵の内部へ足場を築いていけば敵を撃ち破ることができる、と進言したんじゃよ。

査瀆は固陵より東の河口の方に位置するようじゃな。直接川を渡って固陵を攻めるのではなく、東へ迂回して渡河し、守りの薄い査瀆を落とすことで、川向こうの敵地に陣を構築しようという算段じゃな。秀吉の墨俣攻略のような感じじゃろうか

孫策はこの意見に従い、孫静を先鋒とし、査瀆への道を進み、高遷にある軍営を襲撃したんじゃよ。これは見事に成功し、王朗は周昕を差し向けるも撃ち破られ、これで勝負の天秤は一気に孫策の方へ傾いたんじゃよ。

逃避行

上で虞翻の名前が出ておるが、虞翻は結構癖の強い性格ではあるものの、王朗に対しては非常に尽くしておるんじゃよ。どうも虞翻ですら、王朗の人徳には惹かれておったようなんじゃな。

虞翻伝』を見ていくと、孫策が軍を進めてきた時、虞翻は丁度父親の喪に服しておったんじゃよ。じゃが王朗が尋ねてくるとすぐさま喪服を脱ぎ、王朗に助言をするんじゃ。

じゃが結局王朗は戦い敗れてしまう。普通ならここで虞翻は王朗を見捨ててもおかしくないんじゃが、虞翻は王朗の後を追ってくるんじゃよ。

『呉書』によると元々虞翻は王朗を守って広陵まで送るつもりであったようなんじゃ。じゃが王朗は王方平と言う人物の予言書に「急ぎ来りて我を迎えよ、南岳に捜すべし」とあるのに惑わされて、南に向かってしまうんじゃ。恐らく東部侯官の地まで至ったんじゃろうな。

ここは会稽郡でも最南端に近い地、と言えば大体どの辺りか想像つくじゃろうか。

更に王朗は南の交州に身を寄せようとしたんじゃが、虞翻は交州には南岳は有りません、と説得し王朗は思い留まるんじゃよ。

侯官には最初長官が門を閉ざして王朗を受け入れようとしなかったんじゃが、虞翻が説得することで、受け入れられたんじゃよ。

さて、身を落ち着けると今度は王朗が虞翻に対して次のように言うんじゃ。

「(父が亡くなり)あなたには年取った母上が一人でおられる。帰るべきだ。」

ここで虞翻は王朗と分かれ、故郷に帰るのじゃよ。

王朗のこう言う部分が虞翻を引き付けているのであろうな、まことに人格者と言うべきか。

孫策への反撃

じゃが、ことはこれだけで収束しなかったんじゃよ。『賀斉伝』によると、当初王朗の受け入れを拒絶しておった侯官の長である商升は王朗の人柄に触れたのか、王朗のために孫策討伐の兵を起こしたんじゃよ。

孫策は永寧県の長の韓晏に南部都尉の職務を与え、兵を指揮して商升の討伐に向かわせるんじゃ。

代わりに賀斉が永寧県の長に任じられるんじゃが、ここで韓晏が商升に打ち破られてしまう。

韓晏は一流ではなかったかもしれんが、それをあっさり破った商升はなかなかの人物であったようじゃな。

じゃが賀斉が南部都尉の職務に当たると、さすがに賀斉の名声に商升も恐れをなし、印綬を差し出して降伏を願い出てきた、と言うんじゃ。

恐らくこの前後で王朗も降伏してきたのではなかろうか。

ただの一戦で終わっていない辺り、実は思ったよりも王朗との戦いは長引いており、王朗の人柄による影響が大きかったような印象を受ける話ではなかろうか。

孫策への降伏

さて、結局王朗は孫策へ降伏するんじゃが、ここが書物によって違うんじゃよ。

まず『献帝春秋』じゃが、ここでは孫策の問責に対し、自らを捕虜と称し、次のように言うんじゃよ。

「私はわずかの才を以て公私の地位を盗み取り、爵を受けて辞退せず、罪網にかかりました。

~中略~

私は恐れ戸惑い、わけが分からず降伏し捕虜と自称しております。

私は愚かで浅はか、のろまで臆病な男でございまして、威勢を恐れて慌てふためきました上に優れた補佐もなかったため、いち早く自分から帰順することをいたしませんでした。

~中略~

うなじを差し伸べ縄目に付き、足を縮めてきずなに入り、叱咤の声を黙って聞き、東へ行くのも西に行くのもご命令のままにお受けします。」

ここまで卑屈な意見を言う人物に虞翻が尽くすであろうか、しかもあろうことか、「優れた補佐もいなかったため」等、せっかくの助言をしてくれた虞翻に対して失礼極まりない、嘘でも王朗がこんな発言をするはずがないであろうな。

裴松之のボウヤも散々あちこちで献帝春秋の記述はでたらめが多い、と言う割にはこういうとこで否定をしていないのは片手落ちであろうな。

こんなくだらん記事を注釈に入れるなら、でたらめはでたらめだ、とはっきり言うべきであろう。

さて、当然これがでたらめだと思われるのは、別の記述が当然あるからじゃな。

『漢晋春秋』によると、孫策は王朗を捕まえた時、彼を咎め追求した、とあるんじゃが、その後張昭にこっそり王朗の様子を見させたが、王朗は屈服する気配を見せなかった、とあるんじゃよ。

孫策は癪に障ったが、おそらく張昭のとりなしもあったのであろう(王朗と張昭は同郷で若い頃からの友人だったんじゃ)ことから、あえて殺すことはせず、曲阿に引き留めていたんじゃ。

曹操のところまでと思ったが思った以上に孫策関連の記述が多いのう。さて今回はここまでじゃな、次もまたよろしく頼むぞい。

 

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