三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

王朗(おうろう) 字:景興(?~228)その3

さて、今回紹介するのは王朗の3回目じゃな。今回こそ曹操の下へ行った時の話を・・・たぶんできると思うぞい、いや、マヂで。

 

さて、今回は王朗の紹介3回目じゃよ。

どうも、張郃だ。結局孫策のところの話で終わってしまったな。 

と言うか、孫策との戦いって思ったよりも規模の大きい話になっていたんですね。

確かに王朗だけでなく侯官の長までを巻き込んだ会稽全土に渡る戦いに及んでおるからのう。さすがに孫策自らが出てくることはなかったが、それは恐らく劉勲のように本拠を留守にできん、それぐらい時間を擁する戦いになるからじゃろうな。

それにしても『献帝春秋』の記述はひどいな。張昭のような頑固爺さんと友人になれるような人物があれほど卑屈なことはやらん。友人の張昭にも失礼な話だ。 

確かに張昭の話を聞くと、剛毅な性格の方が合ってると思いますね。

その辺りをさらに補強するような逸話もあるからのう。それでは王朗について続きを見ていくとしようかのう。

人物紹介

孫策への感謝の書簡

さて、孫策の下、曲阿に留められておった王朗じゃが、孫策に感謝の手紙を送ったことがあるんじゃ。

別に命を救ってくれたから、の感謝ではもちろんないぞい。

呉志『劉繇伝』を見ていくと、孫策が西へ遠征し、江夏の黄祖を伐った時のことじゃ。その帰途で予章に立ち寄ると劉繇の柩を引き取って運び、遺族の下にかえしてやると共に家族の者達を手厚く遇した、とあるんじゃ。

まあ、孫策には漢王朝の劉氏と言う打算もあったとは思うんじゃが、この行為に王朗は孫策に書簡を送るんじゃ。少々長いが、興味あれば一読するのをお勧めするぞい。

「劉正礼(劉繇)殿がかつて揚州太守となった際には袁術の妨害がありましたが、あなたのご一族のお力添え(呉景等、孫堅の親族)を頼り、長江を渡ってその行政機構を定め、しっかりした身の落ち着けところを得ることができたのであります。

~中略~

後には袁術のやり方に不満を持ったことから、貴家との間にも行き違いが重なり、同盟の関係にあったものがかえって仇敵となってしまいました。

しかし本心を尋ねれば、それは望むところではなかったのであります。

~中略~

聞き及べば、心のこもったご処置で薄情な者たちをはげまし、徳によって怨みに報いるべく、棺を引き取り、孤児たちをはぐくまれ、死者を哀悼されるとともに、遺族には哀れみの情をかけられ、これまでの行き違いを忘れて、孤児たちの後ろ盾となってやっておられますとのこと。まことに深いご恩愛とあついご配慮で、立派なご評判に確かな内実が沿ったものでございます。

~中略~

劉正礼殿のご長子は、志と節操とを立派に身に備えられ、思いますに必ずや優れた人物となりましょう。

ご威勢は盛んに、刑罰は遵守されておりますが、それにご恩愛あるご処置を加えられますならば、まことに素晴らしいことではございませんか。」

かなり長いのでだいぶ端折ったんじゃが、それでも長いのう。

興味深いのは最後の「ご恩愛あるご処置を加えられますならば」、のところだな。王朗殿の目から見ても、孫策は少しやりすぎなところがあったのではないか。 

確かに劉繇の家族にしたように他の人物へも接することができれば、暗殺されることはなかったのかもしれんのう

曹魏への帰参

さて、江南に留まっていた王朗じゃが198年に転機が訪れるんじゃ。

『漢晋春秋』によると曹操が上奏して王朗を召し寄せ、孫策は彼を行かせたんじゃよ。

じゃがこれも結構な難行程を辿ったようで、王朗は曲阿から長江と海を行ったり来たりして、何年もかかってようやく帰参が叶った、とのことじゃ。

あまりにも時間がかかっていることから、孔融は当時広陵辺りにいた王朗に手紙を送って、いつか談笑できる時を楽しみに待っているから、体にお気を付けください、と王朗の到着を待ちわびる手紙を送っているんじゃよ。

演義では魏には楊脩と禰衡しか人材と呼べるものはいない、と言った孔融であるが、実はかなり広範囲にいろんな名士と交流を持っていたのが分かるな。他にも先に出た虞翻とも書簡のやり取りを行い、彼の才能を評価していたようだな。 

さて、何とか帰参がかなった王朗じゃが、そこで曹操は王朗に尋ねるんじゃ。

孫策は何としてあれまでになれたのじゃ?」

王朗は次のように答えるんじゃ。

孫策は武勇一世をおおい、優れた才能、大きな野望を抱いております。張子布(張昭)は人民に信望のある男ですが、北面して彼を助け、周公瑾(周瑜)は江淮の英傑ですが、腕をまくって彼の武将となっています。

孫策は計画すれば成果があり、もくろんでいることは小さくありません。結局は天下の大盗賊となりましょう。ただのコソ泥ではありませんぞ。」

天下をかすめ取るほどの大泥棒、ただのコソ泥ではないと言う辺り、賊の中でも最大級の賛辞と言えるのではなかろうか。

さてこうして曹操の下で後漢に仕えるようになる王朗じゃが、実は彼らしい逸話があるんじゃよ。

王朗の『家伝』によると、王朗が若い頃に付き合った名士の中に、沛国の劉陽と言う人物がいたんじゃ。沛国は曹操達の故郷と同じじゃな。

彼は曹操の雄才を抱いていることを知り、漢王室にとって彼が頭痛のタネになることを心配し、心中彼を取り除こうと思ったんじゃが、ことはうまく行かなかったんじゃ。

その後劉陽は亡くなってしまったようじゃが、曹操が高い身分になると、劉陽の嗣子に対する追及が厳しくなったんじゃ。

劉陽の子は慌てたが逃げ隠れする場所もなく、親戚知人も多数いる者の匿う勇気のある者はおらんかったんじゃよ。

王朗はそこで自分のところで何年も匿い、会稽から帰還してからは更に度々申し開きをしてやったんじゃ。

王朗の尽力もあって、ようやく彼は許されることとなったんじゃな。

父の行いによって災いが子供に降りかかった例だな。運が悪いと言えば悪いが、三族皆殺しになってもおかしくない状況だからな。よく王朗殿は彼を助けたものだ。

そんな王朗じゃが、軍祭酒となり、魏国が建国されると魏郡の太守を務め、小府・奉常・大理と昇進していったんじゃ。『三国志全人名事典』によるとそれぞれの役職の役割は以下の通りじゃな

小府・・・九卿の一つ、宮中の衣食財政を担当

奉常・・・九卿の一つ、太常とも言う。宗廟の祭祀儀礼を担当

大理・・・九卿の一つ、廷尉とも言う。裁判・刑獄関連を担当

さて、大理時代の王朗じゃが、彼の裁断は寛容に務め、罪に疑義があれば軽い方に従った、とあるんじゃよ。

鍾繇は優れた推察力により法を運用し、二人の運用法は違ったんじゃが、共に裁きの見事さを称えられた、と言うんじゃよ。

曹操時代も結構な量になったのう。しかし最後のエピソードは王朗の人柄がよく表れているように感じる内容じゃな。さて今回はここまでじゃな、次もまたよろしく頼むぞい。

 

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