さて、今回は王朗の紹介、5回目じゃな。気が付けば随分な長編となってしまったのう。さて、それでは見ていくとしよう。
さて、今回は王朗の5回目じゃな。今回で最後じゃ。
どうも、張郃だ。中には王朗殿がなった三公の司空や司徒は名誉職で実質的にはたいしたことをやっていないのでは、と言う連中もいるがそれは大違い、と言うものだ。
具体的に何かそれにかかわることをやっていると言うことですよね。
そうじゃな、例えば三公の司徒は丞相で司空は副丞相と言うが、やっていることには微妙に違いがあり、例えば司徒は人民の戸籍・教育・厚生などを主にやっており、司空は土木や刑罰などの司法関係を司っていたりするんじゃよ。
そう言えば前回司空時代に罪人や裁判のことについて上奏をしていましたね。まさに司空の仕事をこなしていた、と言うことですか。
そうじゃな、もちろんそれ以外のこともやっているが、ただの腰掛でないことは確かじゃろう。それでは今回は明帝時代じゃな、早速見ていくとしようかのう。
人物紹介
一旦官位を辞去
次代は曹丕が皇帝の時代じゃが、実は引退しようとしておったようなんじゃよ。
この頃曹丕は公卿に独行(優れた品行)の君子を推挙するように詔勅を下したんじゃよ。王朗はそこで病気を理由に楊彪に地位を譲ったんじゃよ。
じゃが曹丕が楊彪を三公の次の位につけてやり、王朗に詔勅を下したんじゃ。
「朕は君に賢人推挙を要求したが、まだそれを得ない内に、君は何と病気を称している。まだ賢者を獲得できなかっただけでなく、さらに賢者を失う(王朗のこと)路を開き、玉鉉の傾きを酷くすることとなる。
自室にあって発した言葉が悪ければ、君子に反発されるものではないだろうか。君よ、どうかこれ以上は言わないでくれ。」
これにより王朗はまた官に復帰したんじゃよ
腰かけの名誉職であれば、ここまで言って王朗の復帰を願ったりはしないであろう。典論の件もあるし、曹丕殿にとって王朗は得難い人材であったのは間違いないであろうな。
明帝(曹叡)時代の王朗
さて、曹丕が亡くなり、曹叡が即位するんじゃが、曹丕の陵墓への参詣した帰りに人民で生活にこと欠く者を見かけたんじゃ。
そこで王朗は「しばらく農耕に励むことに務め、戦備に親しむことを仕事としていけば自然と戸数人口は増加し、人民は充実、兵力は強大となります。
これで外敵が従わず、従わず、徳の輝きが足らなくないことはあり得なかったことであります。」
これにより、王朗は司徒に転任することとなったんじゃよ。
また王朗は後宮にいる皇子の数が少ないことを気にかけ、それについての上奏も行っておるんじゃよ。曹叡もそれを受け入れ、気を付けるようにする、と言うことだったんじゃ。
以上のように王朗は様々な上奏を行っておるんじゃ。そして当時の話となるが、王朗は『易』『春秋』『孝経』『周官』を書き著し、上奏文、議論文、記事文が全て世に残っておった、と言うんじゃよ。
この内の『易伝』は、後に官吏登用の受験科目に選べるようになっていったんじゃ。彼の著述が当時如何に貴重で重宝されておったか、が分かる話じゃな。
さて、そんな王朗であるが、寄る年波には勝てず、明帝が即位してからほどなく228年に逝去してしまうんじゃよ。
演義で亡くなったのも同じ年だが、演義の方の扱いは酷かったな。
そうじゃな、大学者であり皇帝も彼の意見には耳を貸す、立場としては度々董卓を諭して、言うことを聞かせていた蔡邕に近いかもしれんのう。
さて、王朗の人物紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行こうかの。もちろん彼は全作品に登場じゃな。
能力評価
王朗は当初孫策の攻撃をうまく躱しておったことから、統率を高めの評価としておるんじゃ。また魏では優れた著述と上奏から、特に政治を高い評価としたんじゃよ。
ただ、孫策の攻撃は当初うまく跳ね返しておったものの、機略によって敗れたことから知謀はやや抑えめじゃな。また武勇を示すエピソードも無いことから軍事も抑え目なんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、王朗の能力評価じゃな。
ふむ、統率・采配が高めなのはお主だけなんじゃな。
当初孫策が王朗を攻めくれなかった記述は『孫策伝』のにも『王朗伝』にも書かれていませんことですからね。
そうじゃな、ワシも今回改めてテキストを書き著して初めて気が付いた点じゃったからな。これは仕方なかろう。
しかしこうやって見ると、王朗殿は統治者として、結構理想的な評価となるのだな。
そうじゃな、こういうちょっと意外な評価の人物が出てくるから、面白いと言えるじゃろうな。さて、今回はここまでじゃな。良ければ次もまたご覧くだされ。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。