さて、今回紹介する人物は王遠じゃな。字は方平、生没年は不明。王姓ではあるものの、彼は王朗とは別の一族、と言うかすでに名前の出ておる王方平の方が通りが良いかのう。
さて、今回は王遠、と言うより王方平の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。いや、しかしこれはっどうなんだ。王方平は我らよりも結構前の世代ではなかったか?
いや、そもそも王方平は仙人の類じゃから、多少の時間のずれなど何のそのなんじゃよ。それに王方平の記録は後漢の桓帝の時代(146~168)なので、あまり昔、と言うほどでもないんじゃよ。
それだと2~30年さかのぼる程度ですから、そこまで昔ではないようですね。
ほっほっほ、まあネットで検索かけると、500年ぶりに昔馴染みの仙女に会おうとした、と言う話もあったから何時から生きているのか良く分からんがのう、さすが仙人じゃよw
人物紹介
さて、王方平じゃが、史書に書かれていることは多くないんじゃよ。上に書いているようなネット情報は、興味ある方は各自で調べてもらった方がええぞい。
さて、史書に載っている王方平の記述は呉志『虞翻伝』のところじゃ。
『虞翻伝』の裴松之注『呉書』によると、孫策に敗れた王朗が南方へ逃れた時のことじゃ。虞翻は王朗を追いかけて東部侯官までやってくるんじゃ。
ちなみにここで東部侯官の位置をざっくりと地図で表すと以下の感じじゃな。
会稽郡の中でもかなり南の方だな、揚州北部の郡に行くよりも、どちらかと言えば交州の方が近いぐらいだ。
さて、この時王朗が持っておった『王方平の予言書』に「急ぎ来りて我を迎えよ。南岳に探すべし。」と記述があるのに惑わされて東部侯官まで来たようなんじゃな。王朗は『易伝』の著述もあったように、こういった易により行動を決めておった部分もあるようじゃな。
この時はさらに南下して交州に身を寄せようとしたんじゃが、虞翻が「それはでたらめな書物にすぎません。交州には南岳もありませんのに、どこに身を寄せようとされるのですか。」
さて、こう聞くと王朗は易を信じて迷わされ、虞翻は現実主義者、と言う風に映るかもしれんが、実はこの虞翻、易経の注釈を行ってそれを孔融に進呈しているんじゃ。
孔融は彼の未来予知と洞察力が非常に優れているものと認めるほどだったんじゃよ。
つまり預言書が合っているか間違っているか、これは現地人でなければ分かり得なかったこと、と言うことなんじゃろうな。
ちなみに巻末の翻訳者の追加してくれておる注釈によると、王方平は神仙の王遠のことを指す、とあるんじゃ。
そして史書による記述は微小で、この予言書の信憑性も怪しいながらも、王方平自身は三国両晋時期の神仙・道教信仰において重要な位置を占めた、とあるんじゃ。
道教と言うと張魯が思い出されるが、もしかしたらどこかで繋がりがあるのかもしれんのう。尚預言書の言葉は後漢末に作られたとされる『老子変化経』にもあるようじゃな。言葉の真贋はともかく、当時広く流布した文言ではあったと言うことじゃろうか。
さて、王遠の人物紹介はこれで終わりなんじゃよ。続けて能力評価と行こうかの。今回はワシの評価のみじゃな。
能力評価
さて、王遠は実際には仙人であることから実在も怪しくこの時代に生きているかもはっきりしない人物、と言うことじゃが、まあぎりぎり生きている可能性もあり、王朗への影響も及ぼしたことから、一応入れてみたんじゃよ、方技の人物じゃな。
預言書を残しておることから知謀が高め、ただここではその予言は当たっていない(単に王朗の解釈違いかも)と言うことから知謀の数値は少し控えめじゃな。
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雑談ぢゃ
さて、王遠の能力評価じゃな。
ふむ、預言書からここまで妄想しおったか。
実際に王朗の側にいた訳でもないのに入れちゃったんですね。
まあそう言うでない、今までも実際にはこの時代の状況がはっきりせんのに入れておる人物もいる訳じゃ。多少は大目に見てくれい。
まあ、知謀に優れた人物は欲しいだろうがな。だがどうせここには虞翻がいるのであろう。
ぎ、ぎくり、ま、まあ知謀の士は何人おってもええもんじゃからのう。極力影響を及ぼさない範疇にしておくことで、何とかバランスはとれると思うんじゃ。さて、今回はここまでじゃな。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。