三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

虞翻(ぐほん) 字:仲翔(164~233)その3

さて、今回は虞翻の紹介3回目じゃな。今回からいよいよ孫権時代へ突入じゃな。ここから虞翻にとって波乱万丈な時代の幕開けじゃよ。

 

さて、今回は虞翻の紹介の3回目じゃな。

どうも、張郃だ。確か虞翻は最後は孫権の逆鱗に触れて流されるんだったか。 

今までの話を聞くと、多少自尊心が強い面は見られますが、あまりイメージが湧きませんね。

まあ孫権の場合、クセの強い臣下とは良くぶつかるからのう、張昭もそうじゃが虞翻もなかなかの曲者じゃからな。それでは孫権時代の虞翻を見ようかのう。

よろしくお願いします。

人物紹介

孫策の最後

さて、華歆の降伏に成功した虞翻であるが、後に孫策の幕府を出て呉郡富春県の県長に任じられるんじゃ。

本来虞翻の能力は君主の側近・参謀としていろんな意見を述べてこそ、と思うんじゃが、ここで県長に任じられた理由は不明じゃな。

孫策が参謀以外の才も見出し、任せてみた、と言うことなのかもしれんのう。

事実、後に虞翻は州の役所から茂才に推挙され、漢の朝廷から召され、曹操の幕府からは司空として招こうとしたようなんじゃが、これは虞翻曹操を嫌ったがためか応じなかったようじゃな。

もっともこれには異論もあって、『呉書』と『会稽典録』では変わらず虞翻は会稽郡で孫策の下におり、功曹のままとなっている。本文と食い違いがあり、どちらが正しいかは分からん、とのことだな。 

じゃが、あれだけ単独行動の危険性を言っておった虞翻がミスミス孫策が暗殺されるような状況を善しとはしておらんじゃろうから、外に出ていたのが正解ではなかろうか。

そして、孫策が亡くなった時、主だった役人は皆、任地を離れて孫策の葬儀に駆け付けようとしたんじゃが、そこで虞翻は以下のように言うんじゃ。

「隣県の山越の民たちが変事を起こす心配があり、城郭をほったらかして遠くまで行けば、きっと不慮の事態が起こるであろう。

こうして任地に留まり喪に服して追悼の儀式を行ったんじゃ。他の件もこれに倣ったため、皆安寧が保たれた、とあるんじゃ。

暗殺された時の虞翻はどんな気持であったかな。 

自身が近くにいれば、と言う思いはあったかもしれんのう。

初期孫権時代の虞翻

孫権時代の何時ごろか正確なことは不明じゃが、虞翻孔融に自身が著した『易伝』の注釈を進呈しておるんじゃ。詳細は孔融の所に書いてあるぞい。

 

孫権虞翻を騎都尉に任じたんじゃ。しかし虞翻がしばしば孫権の意向に逆らって諌言したため、孫権は不愉快な気持ちを募らせ、加えて彼の性格が人々と協調できぬものであったため、しばしば他人から非難を受け、そのため罰せられ丹陽郡の涇県に押し込められたんじゃよ。

いよいよ虞翻の本領発揮、と言ったところか。と言うかいきなり罰せられているのだな。

呂蒙からの誘い

さて、不遇を託っておった虞翻じゃが、ここで呂蒙から救いの手が伸びてくるんじゃよ。

呂蒙関羽をやり込める計略を立て、病気を理由に一旦建業に戻ったんじゃが、それに際し虞翻が医術にも詳しいと言うことで、願い出て彼を自分の側に付き従わせ、同時にこのようにすることによって、虞翻が許されるように取り計らおうとしたんじゃよ。

呂蒙はなかなかできる人物であるな。彼が荊州にずっといられるとなかなか厄介であったろうな。

やがて呂蒙が全軍を上げて西へ向かうと、南郡太守の麋芳は城門を開いて投降してきたんじゃよ。

呂蒙はすぐに郡城を占領しようとはせずに、城外の広場で勝利の宴を開こうとしたんじゃ。じゃがこれに虞翻が進言をするんじゃ。

「ただいま麋将軍にまったく二心が無いことは明らかであるにしても、城中の者達はその全てが信用できるわけではありません。どうして急ぎ城中に入って、その鍵を握ってしまわれぬのでしょう。」

呂蒙はすぐにこの進言に従ったんじゃよ。

事実、この時城中では兵をひそめて不意打ちをかけようと言う計略があったのであるが、虞翻の進言により、これを未然に防ぐことができたようなんじゃ。

関羽の最後と于禁

さて、関羽が打ち負かされると、孫権虞翻筮竹で占いをさせたんじゃよ。

でた卦は、下が兌で上が坎である節の卦で、その五爻が変化して臨の卦に移った、とあるんじゃ。

ううむ、さすがにこれは自分の理解の範疇から大きく外れてて、意味がほとんど分からんのう。

さて、この結果を受けて虞翻孫権に以下のように伝えるんじゃよ。

「二日以内に、必ずや関羽の首は断たれましょう。」

果たして虞翻の言う通りであったことから、孫権は次のように言ったんじゃ。

「あなたは伏羲(はじめて八卦を描いたとされる古代の帝王)には及ばぬまでも、東方朔(当て物に巧みであったとされる、漢代の人)とは肩を並べられよう。」

さて、魏の于禁であるが、この時関羽に捕らえられ、城中に繋がれておったんじゃよ。それが関羽が敗死したことで救い出されたんじゃ。

孫権は江陵までやってくると于禁の縄目を解かせ、自分の方から会見を申し入れたんじゃよ。

孫権于禁を相当気に入ったらしく、後に孫権が馬で外出した時のこと、于禁を招いて馬を並ばせて歩ませようとしたんじゃが、これに虞翻が嚙みつくんじゃ。

「降伏者のお前が、何で我が君と馬首を並ばせたりするのか。」と言い鞭を振り上げて于禁を打とうとしたんじゃ。

後にまた孫権が楼船に群臣を集めて酒宴を開いた時のこと、于禁が音楽を聴いて涙を流すと、虞翻はまたも言ったんじゃ。

「お前は心にもないことをして赦してもらおうとするのか。」

孫権はぶすっとして不機嫌そうであった、と言うんじゃな。

于禁殿は叩き上げの武人だから、名族の出である虞翻は我慢できんかったのであろうな。この辺りは孔融殿とよく似ていると言えよう。一方の孫権は元々名族と言えるほどでもないから、于禁に対する親愛の度合いが違うのであろうな。

于禁自身は『呉書』によると虞翻を高く評価し、後に魏に戻った時に大いに称賛した、とある。この辺りの狭量さと言うか誇り高すぎる面は虞翻の欠点じゃろうな。

さて、そんなところで今回は終わりじゃな。優れた未来予測の才能を持ちながら、あまりにも誇り高すぎる意識が今後どうなっていくか、次あたりで仕舞にしたいもんじゃな。

 

 

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