さて、今回紹介するのは華歆じゃな。字は子魚、生年は157年、没年は231年じゃな。平原郡高唐県の出身と言うから、劉備が一時期駐屯していたところの出身と言うことじゃのう。
さて、今回から新勢力、華歆の紹介じゃな。考えてみたら後に魏の三公となる人物が二人もこんなところにいるとはのう。
どうも、張郃だ。王朗殿に華歆殿か。二人ともそのまま呉に残っておってもおかしくなかった訳だからな。
華歆さんって、演義では結構ひどいことやってたような記憶がありますよ。
伏皇后の件じゃろうな。あれも正史の注釈に載っているんじゃが、内容に信用のないあれじゃからのう。しかも情景としてあり得ない描写ばかりと言う、お話にならん内容じゃからな。
まあ短命に終わった王朝は、悪口が残り易いから仕方あるまい。長く続いた王朝は、存続している間に悪い風聞は消えていくものだからな。
実際にあったこととしても、タブーとしてそのうち消え去ると言うことですね。人のうわさも、って言うようなもんですね。
そう言う感じじゃな。さて、それでは華歆について見ていくぞい。
人物紹介
若き日のエピソード
さて、華歆の出身の高唐県は斉地方(青州周辺)の名高い都市であり、盛り場もにぎわっており、そこで遊び歩かない官吏はいなかった、と言うんじゃよ。
じゃが華歆は役人となっても休日に役所を退出すると、家に帰って門を閉ざした、と言うんじゃ。
議論の時には公平さを保ち、絶対に他人を傷つけなかった、とあるんじゃよ。
若い時から遊び歩かない、生真面目な性格なのだな。しかも相手に対する思いやりもある。知ってはいたが、こうやって記述を見ると文句なしの人格者だな。
さて、同じ高唐には陶丘洪と言う人物がおったんじゃ。実は何度か名前が出てきていたが覚えておる人はいるかのう。
劉岱・劉繇の兄弟を推挙した人物だな。そうか彼は華歆と知り合いであったのだな。
彼も優れた人物として名が知られており、彼自身華歆以上の見識があると思っていたんじゃよ。
そんなある日、王芬と言う人物が勢力家たちと霊帝廃位を計画したんじゃ。王芬は陶丘洪と華歆を呼び寄せて一緒に計画を立てようとしたんじゃよ。この計画には許攸も参加しており、更に曹操にも声がかけられたぐらい、結構大規模な話だったじゃよ。
さて、陶丘洪が出かけようとした時、華歆が彼を引き留めて言うんじゃ。
「そもそも天子の廃立は重大事だ。伊尹(殷の賢臣)、霍光(前漢の宰相)も苦しんだことだ。王芬は大雑把な性格で武勇がない。
これはきっと成功せず、災難が一族まで降りかかろう。子よ、行ってはなりませんぞ。」
陶丘洪は華歆の忠告に従って取りやめたんじゃ。そして後に王芬は華歆の言ったとおりに失敗したんじゃよ。陶丘洪はこれで華歆に対して恐れ入ったんじゃよ。
ちなみに曹操もこの王芬の計画は失敗すると睨んだのか参加を拒否しておるんじゃよ。世の賢者の見るところは同じなんじゃな。
孝廉に推挙
この後、華歆は孝廉に推挙され、郎中に任命されたんじゃが、病気のために辞職したんじゃよ。その後霊帝が崩御し、とあるから郎中になったのは20代の頃のことじゃろうな。曹操も20歳で孝廉に推挙され、郎に任命されたとあるから、曹操とあまり変わ蘭ぐらいの勢いで政界に進出しておるんじゃ。
さて、霊帝が崩御し、何進が政治を補佐するようになると、河南の鄭泰、潁川の荀攸、そして華歆等を召し出したんじゃよ。
鄭泰殿も既に紹介しておるな。知謀に優れた人物だ。荀攸殿は聞くまでもないであろう。そんな面々と名を並べていると言うのはやはり大したもんだろう。
華歆は尚書郎となったんじゃ。じゃがその内董卓が都を掌握し、更に長安に遷都してしまうんじゃ。華歆は地方に出て、下邽の県令になりたいと願い出たが、この時も病気にかかってしまい、任地に行けんかったんじゃ。
その後、藍田を通って南陽へ向かうんじゃよ。当時この地には袁術がおり、華歆を引き留めたんじゃよ。
そこで華歆は軍を進めて董卓を討伐するように進言するんじゃが、袁術は採用することができんかったんじゃ。
そこで華歆は袁術に見切りをつけて去ろうとしたんじゃが、丁度この時献帝が関東諸侯を安定させようと考え、馬日磾を派遣してくるんじゃな。
馬日磾はこの華歆はを召し出して掾とし、これにより袁術の所から逃れることができたんじゃ。
そして、東に向かい、徐州まで来たところで詔勅を受けて、その場で華歆を予章郡の太守に任命されたんじゃ。ここから彼の一群雄としての戦いが始まるんじゃよ。
さて、華歆が予章郡の太守になったところで、丁度キリの良いところまで進んだ、と言うことでいったん終わりとしようかの。次からは孫策~曹操時代の動きを見ていくとしようかのう。
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