三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

華歆(かきん) 字:子魚(157~231)その2

さて、今回は華歆の紹介2回目じゃな。今回からは予章太守から孫策孫権時代を経て曹操の下に赴いた頃の話じゃな。

 

さて、今回は華歆の紹介2回目じゃな。

どうも、張郃だ。次は孫策とのやり取りの辺りだな、ここは長くなりそうだな。 

それはどう言うことでしょうか。

うむ、ここはいろんな史料に分かれて、史料ごとに違う視点から記載されておるからのう。じゃからそれをうまく繋いで纏めないといけないんじゃよ。

なるほど、そこの部分だけでかなり時間がかかりそうですね。

うむ、それでは華歆について見ていくぞい。

人物紹介

予章太守として

さて、予章太守として赴任してきた華歆じゃが、彼の統治はすっきりと落ち着いており、煩雑ではなかったことから、官民はありがたがり彼を愛したと言うんじゃ。

そのため、『魏略』によると揚州の刺史の劉繇が亡くなった時、その配下にあった民衆は華歆を主として戴きたいと請願するようになるんじゃ。

じゃが時勢を利用して勝手に任命を受けることは、人臣の踏むべき義に外れる、と判断し、あくまでもこれを受けなかったんじゃよ。

華歆殿は生真面目すぎる性格であるな。常に漢朝の臣と言うことで当時皆が当たり前にやっていた勝手に将軍や郡太守になったり、と言うことをしなかった訳だ。 

それにしても華歆の名声はかなりのものだったんじゃな。じゃがそこにいよいよ孫策が襲来してくる訳じゃな

虞翻の説得

さて、『華歆伝』の裴松之注、『呉歴』によると孫策は予章を攻撃した時、先に虞翻を派遣して華歆を説得させたんじゃよ。

そして同じ『呉歴』じゃが、『虞翻伝』の方に説得の内容が載っておるんじゃ。

それによると虞翻は以下のように言うんじゃよ。

「あなたさまは王府君(王朗)さまと等しく中原の地に高い評判を馳せられ、天下の誰もが心をお寄せするところとうけたまわり、東方の辺地におる私ではございますが、常々敬慕の気持ちを懐いておりました。」

これに対して華歆が答えるんじゃ。

「私は王会稽(これも王朗)殿には及びもつかぬ。」

そこに虞翻は重ねて尋ねるんじゃ。

「予章郡の兵士の精鋭さは会稽郡と比べて如何でございましょう。」

これに華歆は全く及ばない、と答えるんじゃよ。そしてこれに対して虞翻は以下のように返すんじゃよ。

「太守様がご自身を王会稽殿及びもつかぬ、と申されますのはご謙遜のお言葉に過ぎませんが、兵士の精鋭さで会稽郡の兵士に及ばないと言う点はまことにおっしゃる通りでございます。」

続けて孫策の才略が非凡であることや、兵の用い方のすばらしさについて述べたんじゃ。

『呉歴』ではこれにより華歆は降伏を決意したかのように書かれておるんじゃが、どうももう少し状況は複雑なようじゃな。

虞翻の説得後

虞翻が帰還した後じゃが、『華歆伝』の裴松之注『江表伝』によると、虞翻が別れた後、華歆は劉壱を請じ入れて、相談するんじゃ。

劉壱は華歆に城に留まり檄文をやって孫策軍を迎え入れるように勧めたんじゃ。華歆は自身が正式な漢朝の官吏だが、それが袁術の手先である孫策の侵攻に易々と降伏しても良いものか、と少し悩んだようなんじゃな。

劉壱はそれに対して王朗達も降伏した罪は許されており、気にする必要はない、と答えるんじゃ。これにより華歆は降伏を決意する、と言うことなんじゃな。

相変わらず几帳面なお方だ。下手に逆らえば殺害されるかもしれない、と言う状況下で迷うこともないと思うのだが、そこが華歆殿らしいと言えばらしいか。

華嶠の『譜叙』によると、この後孫策が向かってくると官僚たちは恐れおののき、色々な意見を述べるが、華歆は慌てずに次のように言うんじゃ。

「今に(孫策)自ら来るだろう。どうして慌てて彼を避ける必要があるのかね。」

しばらくして門客が

「孫将軍が参られまして、会見を求めております。」

と告げてきたんじゃよ。そこで華歆と孫策は同座し、しばらく談論したんじゃ。孫策は華歆の人柄にほれ込んだのか、自ら子弟の礼をとり上客として礼遇した、とあるんじゃ。

華嶠と言う姓を見ればわかるように、彼は華歆の一族(孫)なのだ。だから本来この話は話半分で聞いておいた方が良い・・・・のだが。

さよう、孫策が華歆に子弟の礼をとったという記録は他(呉歴、江表伝、は朋友だから少し違うが上客として遇したのは同じ)にも似たような記録がみられるんじゃよ。

このように、虞翻との会合の後、劉壱へ相談し、更に孫策とも会合を行ったところで、降伏に至っているような感じなんじゃな。大きな抵抗を見せずに降伏したためか、王朗との扱いがだいぶ違ったことは確かなようじゃな。

宴席でのエピソード

さて、孫策時代じゃが、大きな会合を催した時のこと、華歆はよく痛飲し、1石余り飲んでも乱れることがなかった、とあるんじゃ。

一石がどの程度の量か、ちと調べてみたが、1石=120斤で、1斤=220gらしいことから25㎏ぐらい、酒じゃから25リットルと言ったところじゃろうか。

この時代の酒はまだ酒造技術が低いため、アルコール度数は低かったらしいんじゃが、それでも普通25リットルはの面と思うんじゃよ。

華嶠の『譜叙』によると、これだけ飲んでも乱れることがなかったことから、江南では彼を称して「華独坐」と言ったとあるんじゃ。

さて、華歆のことを気に入っておったのは孫策だけでなく、孫権も同じであったようなんじゃよ。曹操官渡の戦いの時に、華歆を召し出すようにと上奏したんじゃが、孫権は行かせまい、と当初思ったんじゃよ。それに対して華歆は次のように言うんじゃ。

「将軍(孫権)はまだ曹公とよしみを通じたばかりで、互いの交情もまだ固まっておりません。やつがれ(下僕、華歆のこと)が将軍のために心を尽くせるようにしてくだされば、有益かと思います。

今、空しくやつがれを引き留めておられますが、それは役に立たぬものを養っていることで、将軍にとって良計ではありますまい。」

こうして孫権は華歆を行かせることとなったんじゃ。このままここにおっても役に立たんが、曹操孫権の懸け橋としてなら力を尽くせるだろう、と言うことじゃろうか。

さて、そんな華歆を見送るものは賓客や旧友など千余人、餞別は数百金に上ったと言うんじゃ。華歆は全て拒絶することなく受け取ったんじゃが、ひそかにそれぞれ印をつけておったんじゃ。

いよいよ出発となったところで賓客たちに言うんじゃ。

「元々諸君たちの気持ちを拒みたくなかったので餞別を受けたが、受け取った物が結局多くなった。

一台の車で遠く旅することを考えると財宝を持っていることが災難となるかもしれない。どうか客人にはそのことをご理解ください。」

こうして皆は結局餞別を引き取り、彼の徳義に感服した、とあるんじゃよ。

さて、普通に華歆殿は財に対して淡白で余財を残さない人物であった、と言う話じゃからな。この辺りにもその性格が表れた、と言うところじゃろうな。

さて、キリが良いので今回はここで終わりとしようかの。次からはいよいよ曹魏時代の働きじゃな。

 

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