さて、今回は華歆の紹介3回目じゃな。今回からは曹魏の下でのエピソードを見ていくとしようかのう。と言っても実は曹操時代はあまり記録がないのかもしれんのじゃ。
さて、今回は華歆の紹介3回目じゃな。
どうも、張郃だ。今度は魏に来てからの話だな。まだまだ続きそうだ。
200年頃に魏に来たとして、そこからまだ30年ぐらい続く訳ですよね。
そうじゃな、まだ先があることじゃから、すぐに見に行くとしようかのう。
よろしくお願いします。
人物紹介
曹操の参謀として
曹操の下に来てからの華歆じゃが、議郎に任命され、司空の軍事に参与したんじゃよ。その後中央で尚書となり、侍中に転任した後、荀彧に代わって尚書令となったんじゃよ。
その後曹操が孫権を征討した時、華歆を軍師として申請した、とあるんじゃ。
荀彧を同じように呼んでその後荀彧が憂悶死したことで、尚書令だった荀彧を軍師として呼ぶのはおかしい、何か裏があったのでは、と言うような記述も見かけるが、このように華歆殿も呼ばれていることを考慮すると、別段特別なことではなかったことが分かるであろう。
じゃが曹操時代の華歆はこれ以外にはあまり記録が見えてこないんじゃよ。
『魏書』によると、華歆は緻密な性格で行動は周到慎重であった、とあるんじゃ。今までのエピソードを見れば、何となくそれは理解できるのではなかろうか。
人臣が事を上奏する場合、それとない諌言と道理に合致することを重んじたんじゃ。たとえ発言することがあっても、敢えて表沙汰にしなかったんじゃ。そのため、それらのことが記載されていない場合が多いんじゃよ。
また華嶠の『譜叙』によると、華歆は金銭に対し淡白で、前後して受けた恩賜は他の高官たちの及ぶところではなかったんじゃが、財産は全く増やさなかったんじゃよ。
陳羣は常に感嘆して
「華公と言う人は順調でありながら贅沢にならず、潔癖でありながら偏狭にならない男だ。」
と言ったんじゃよ。
非常にバランス感覚に優れた人物であることが分かる話だな。
また『傅子』に言う。「敢えて現代の君子について訊ねるが。」
答、「袁郎中(袁渙)は徳を積み重ね行動は控えめである。華太尉(華歆)は徳を積み重ね、生活は道義に適っている。
彼らの英知に到達することも可能だが、彼らの清潔さには到達することが不可能である。上に仕える時には忠節を以てし、下を救う時には仁愛を以てする。晏嬰・行父でも彼等以上であろうか。」
相変わらずその徳行の高さが称賛される訳じゃな。
文帝曹丕の治世にて
さて、曹丕が王位に就くと相国に任じられ、安楽卿侯に封じられたんじゃよ。
さらに曹丕が帝位に就くと司徒に任じられたんじゃ。『魏書』によると文帝が禅譲を受けた時、華歆は檀に上って儀式を補佐したんじゃよ。
その一方で華嶠の『譜叙』によると、文帝が禅譲を受けた時、朝臣は三公以下いずれも爵位を受けたんじゃが、その時の華歆の態度や表情がその時の状況に反すると判断されたため、左遷されて司徒となり、爵位も昇進しなかったんじゃよ。
魏の文帝は長らく不機嫌で尚書令の陳羣に、禅譲を受けた際、皆が歓喜する中、何故華歆と陳羣のみうれしそうではなかったのか、意見を求めたんじゃよ。
陳羣は
「臣(陳羣)と相国(華歆)は以前漢朝の臣下でありました。心の内では歓喜いたしても道義感がその表情に表れたのです。一方では陛下が実際に憎まれるに違いないと恐れてはいたのですが。」
とフォローしたことで帝は喜び、華歆を特別扱いしたんじゃよ。
実際、漢王朝がなくなり、新しい時代が到来する、と言うのは思った以上に色んな感情を湧き起こさせるものではあったからな。日本で言うなら明治維新とかが少し近いのではないか。
この頃の華歆は相変わらず清貧に甘んじ、俸禄と下賜品は全て親戚旧知にふるまっていたんじゃよ。公卿たち皆に官有の女奴隷(犯罪人の家族)を賜ったことがあったが、華歆は彼女らを解放し面倒を見て嫁にやったりしたんじゃ。
曹丕は感歎し、詔勅を下して特に御衣を賜り、更にその妻子や一族の男女全員のために衣服を作ってやったんじゃよ。
さて徳行を重んじる華歆ではあるが、政治理念はまた違うものがあるのかもしれんのじゃよ。
人材登用について
三公の役所で、「孝廉を推挙する場合、徳行によるのが本来であります。経典の試験をすることによって制約されないように。」と発議があったんじゃ。
じゃが華歆は主張したんじゃよ。
「動乱よりこのかた、六経は崩れ廃れました。(学問の)存立に努力することによって王道を盛んにすべきでございます。そもそもおきてと法と言うのは、経典に盛衰に関係するものです。
今、孝廉に経典の試験を課さないことを許せば、恐らく学業はこれから廃れることになるでしょう。もし、格別の秀才がおれば、特に召し出して起用すべきです。その人物がいないことが心配なだけで、(いれば)どうして獲得できぬ心配がありましょうや。」
あくまでも才能が重要である、と言う点は曹丞相が求めていた人材登用法と共通している。後漢の衰退は才能ではなく徳行ばかりに目が言ったことも要因の一つだからな。
曹丕もこの意見には大いに賛ずるところがあったようじゃな。そしてその考えを元に作られたのが九品官人法、なのかもしれんのう。
さて、キリが良いので今回はここで終わりとしようかの。恐らく次で華歆の紹介最後じゃ、と思うぞい。
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