三国志に釣られクマー

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孫堅(そんけん) 字:文台(156~192)その1

さて、今回紹介する人物は孫堅じゃな。字は文台、生年は156年じゃからほぼ曹操と同世代じゃな。後に呉の皇帝となる孫権の父に当たる人物じゃが、彼もまたひとかどの人物であったのは確かなようじゃな。そんな彼が192年、37歳と言う若さで命を落とすことになってしまった。残念な話じゃ。

 

さて、今回紹介するのは孫堅じゃな。呂布とはまた違ったタイプの強武将と言ったところじゃな。

どうも、張郃だ。ふむ、やはり今回は孫堅の紹介か。  

ここに来て有名な方の登場ですね。

うむ、武将としては自ら陣頭に立ち指揮を行う、ウチで言うなら張遼殿に近いタイプと言えようか。もちろん前線に立つと言うことは、それだけリスクを負うことにもなるからな。 

そうじゃな、それが孫堅の寿命を縮めることになったと言えるかもしれんのう。よし、それでは今回は彼の戦績から見ていくとしようかの

よろしくお願いします。

人物紹介

軍事面の実績 

孫堅戦績

    対胡玉    〇 (匏里)

    対許昌    〇 (会稽)

    対黄巾    〇 (汝南)

    対黄巾    〇 (潁川)

    対黄巾    〇 (宛)

    対賊徒    ×  (美陽亭)

    対辺章・韓遂 〇 (不戦勝・涼州

    対区星    〇 (長沙)

    対周朝    〇 (零陵)

    対郭石    〇 (桂陽)

    対賊徒    〇 (宜春)

    対王叡    〇 (襄陽)

    対張咨    〇 (南陽

    対胡軫呂布 〇 (陽城)

    対徐栄    ×  (梁)

    対華雄    〇 (陽人)

    対周昂    △ (陽城)

    対周喁    〇 (豫州・複数回)

    対黄祖    〇 (樊城)

    対黄祖・呂公 ×  (峴山)

 

                      20戦 16勝3敗1分

 

およそ以上になるかのう。トータルの勝率は丁度8割じゃな。じゃが周喁とは何度も戦闘して、その度に敗れた、とあることから、実際の勝率は更に高い、まさに名将と呼ぶにふさわしい人物じゃろう。

これだけの人物があっけない最期を迎えてしまうのじゃから、何とも皮肉な話じゃな。

 

主な軍事内容

海賊討伐

孫堅伝』を紐解くと、年十七の時、父親と一緒に銭唐に出かけるんじゃが、その途中、海賊の胡玉が匏里に上陸して商人の財物を奪い、岸辺で分配しているところに出くわしたんじゃよ。旅人たちは皆海賊たちを恐れてとどまり、船も進もうとしなかったほどなんじゃよ。

その時、孫堅は父に言うんじゃ。

「この賊はやっつけられます。私に討伐させてください。」

父親はもちろん反対するんじゃ。

「お前が手出しできるような相手ではない。」

じゃが孫堅はそれに構わず進み出ると、刀を手にして岸に上がり、手を振るって東西に合図を送ったんじゃよ。その様はあたかも人々や兵士達を指図して賊達を取りこめ、退路を断とうとするかのようであったんじゃよ。

賊達はこれを見て官兵達が捕らえに来たと思い、そのまま財貨をほったらかして逃げ散った、とあるんじゃ。

孫堅はそれを追いかけ、首を一つ斬って戻ってきた、とあるんじゃ。

ハッタリ一つで賊徒を逃げ散らかせ、首を取ってくるなど、簡単にやっているように見えて、そうできることではない。胆力も相当なものだ。 

黄巾賊との戦い

184年に黄巾賊が蜂起した時のことじゃ。朝廷は皇甫嵩朱儁等を派遣して討伐させたんじゃ。そこで朱儁は上奏して、孫堅を自分の配下として願い出るんじゃ。

孫堅は兵士を慕って千人程の精兵集めると、朱儁と力を合わせて奮戦して、向かうところ敵なしの状態であったんじゃ。

とは言え、『呉書』によると孫堅は勝ちに乗じて深入りし、苦戦して負傷したこともあるようじゃな。

自ら前線に立つ将だけにこのような事態に陥ることもある。前線指揮官にありがちな状況だな。 

この時は孫堅の乗っていた葦毛の馬が軍営に帰り、配下の兵士達を孫堅の所まで連れて行ったようじゃ。

孫堅は10日余りで傷が癒えるとまた戦いに出た、と言うことじゃな。

宛の城を攻める時も、一方の攻撃に当たり、先んじて城壁を乗り越えて城内に入った、とあるんじゃ。この後兵卒たちも続々攻め込んで、これにより賊徒を大敗させた、とあるんじゃよ。

さて、とりあえず今回はここまでじゃな。次もまたよろしく頼むぞい。

 

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