さて、今回紹介するのは孫賁じゃな。字は伯陽、生没年は不明じゃな。彼の父孫羌は字を聖台と言い、孫堅の同母兄にあたる人物だったんじゃ。さて、孫賁はどんな人物であったか、見ていくとしようかのう。
さて、今回は孫賁の紹介じゃな。孫堅の兄の子なんじゃ。どうも両親は結構早くに亡くなったようじゃな。
どうも、張郃だ。弟の孫輔はまだ赤ん坊だったと言うことから、結構年は離れていたようだな。
と言うことは結構若い頃から苦労されていたのでしょうか。
そうじゃな、どうも孫賁自身が孫輔を育てておったようじゃな。それでは孫賁自身について見ていくとしようかのう。
人物紹介
さて孫賁について、弟の面倒を見ながら、出仕して郡の督郵守長となったんじゃ。
その後、孫堅が長沙で義兵を挙げると孫賁は役人をやめ、孫堅に従い征伐に従ったんじゃよ。
孫堅が逝去すると、残された軍勢を孫賁が引き継ぎ、孫堅の柩を守って故郷へ送り返したんじゃよ。
その後劉繇が揚州刺史に任命されると、呉景と共に劉繇を迎えて曲阿に落ち着かせたんじゃ。じゃが孫賁は袁術の官位を受けており、支配圏域を広めようとしておった袁術と劉繇との間に軋轢ができたことから、劉繇は孫賁らを追い出すんじゃ。
袁術は軍を与えて、孫賁等に劉繇を攻めさせるんじゃが、これはなかなか攻め落とすことができんかったんじゃな。
これを見ると、あまり攻撃的な性格ではないのかもしれんな。その一方で孫堅の軍勢をソツなく引き継いだことから、統率には一定の力量があったのではないかな。
その後は孫策に従って各地の討伐に従軍したんじゃ。この頃袁術が皇帝を僭称し、孫賁も九江太守に任じられるんじゃが、孫賁はその官に就くこともなく、妻子を捨てたまま江南に戻った、とあるんじゃ。
妻子を捨てて、と言うのが気になるが、もしかすると袁術と縁故があったのかもしれないな。それでなくては妻子を捨てる、と言うのにはさすがに少々違和感がある。
その後、孫策と共に盧江太守の劉勲と江夏太守の黄祖との征伐を行ったんじゃが、その凱旋の途上、劉繇が病死しているのを聞くと予章に立ち寄って平定し、孫賁がその地の太守の任に当たったんじゃ。
その後208年に征虜将軍に任じられるも、予章太守の任務は以前のまま担当するんじゃよ。そして官職にあること11年にして孫賁は死去したんじゃよ。
劉繇が亡くなって、予章太守に就いたのが198~199年頃と考えると、亡くなったのは209年か210年頃かのう。まだ若かったろうに惜しい話じゃな。
さて、孫賁の人物紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼は鄭問さん以外に登場しておるようじゃな。
能力評価
孫賁は軍事面ではさほど目立つ実績は残せておらんが、孫堅の軍勢を引き継ぎ維持しておったことから、統率を高めとしたんじゃよ。
また、武官でありながら予章太守として11年勤め上げたことから、政治もそれなりに高めの評価としたんじゃ。
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雑談ぢゃ
さて、孫賁の能力評価じゃな。
ふむ、統率が高めな点、お主と天舞三国志は近い部分がありそうだな。ただ政治面はちょっと違う感じだな。
三国志14は統率と武力が師匠とは逆ですが、他はちょっと近い感じですね。
ワシの評価は偶然じゃが、軍事と知謀が高い孫静とちょうどかみ合う感じになったのう。
確かにこの二人を組み合わせるとお互いの弱点を補うことのできる組み合わせになりそうだな。
二人とも有名とは言えないかもしれんが孫呉の土台を支えるという点でどちらも重要な武将だったのは確かじゃと思うんじゃよ。と言ったところで今回はここまでじゃな。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。