さて、今回紹介するのは朱治じゃな。字は君理、生年が156年と言うことは曹操や孫権とほぼ同世代と言うことになるんじゃよ。このことが彼を呉の中でもちょっと特殊な立ち位置となるんじゃよ。
さて、今回紹介するのは呉の朱治じゃな。
どうも、張郃だ。呉の重鎮、いや、長老格となる訳だ。若い孫策や孫権も気を遣ったであろうな。
名前は知っていますが、呉の中ではちょっとマイナーな方の人物ですよね。
そうじゃな、じゃが上でも書いている通り、彼は孫堅時代から従う人物の中でもちょっと特殊な立ち位置だったんじゃよ。それでは見ていくとしようかのう。
人物紹介
若き日の朱治
さて、『朱治伝』を見ていくと朱治は丹陽郡故鄣の人物とのことじゃな。若い頃は県の下役人となり、やがて孝廉に推挙され、州の役所から招かれて従事となり、更にその後孫堅の配下となって征伐に従った、とあるんじゃよ。
朱治がどのような経緯で孫堅に従うようになったかははっきりせんが、董卓討伐の逸話を孫賁にしたことがあるようなので、それ以前から従っていたのは確実なようじゃな。
恐らくじゃが、172年に会稽の妖賊の許昌が反乱を起こした時、州郡の官兵と共同して孫堅は戦った、とあり、朱治も州の役所に招かれておったことから、この頃の話ではなかろうか。
黄巾の乱よりもさらに古い、この辺りは俺も知らない時代の話だな。
朱治も孝廉に推挙される等、黄蓋同様、ちょっとインテリよりと言うことになるのであろうか。彼も少し違う印象を受けるのう。
陶謙の下へ派遣
188年、朱治は司馬に任ぜられ、長沙・零陵・桂陽三郡の不服住民、周朝や蘇馬の討伐に参加して、手柄を立てた、とあるんじゃ。
更に董卓討伐にも参加し、董卓軍を陽人の地で破り、洛陽に入ったんじゃ。
ここでも活躍した朱治は督軍校尉の任務に当たらせ、孫堅とは別の独立した歩兵や騎兵を指揮し、彼は東に向かって徐州の牧陶謙のもとに赴いて、黄巾の討伐に力を添えた、とあるんじゃよ。
ここで陶謙の名前が出てくるとは思わなかったな。それにしても別軍の指揮を任される等、孫堅の信頼が誰よりも高かったと言うことではないか。
確かに魏で言うなら曹仁殿が同じような立場であった、と考えると朱治の立場が如何に強かったかが伺える話じゃのう。
孫策の危地を救う
孫堅が逝去すると朱治は袁術の下に身を寄せるんじゃが、袁術の統治が徳による教化の道から外れていることを感じると、孫策に軍を返して、江東の地を平定するようにと勧めるんじゃ。
当時太傅の馬日磾が寿春におり、朱治を招いて自分の幕府の掾となし、やがて朱治は呉郡の都尉に昇進するんじゃよ。
この頃孫策が盧江を攻撃すると劉繇は自分の所領も併合されるのではと考え、両者の間には反目が生じるんじゃ。
じゃが、この頃孫策の一族眷族は皆劉繇の治所にいたんじゃな。このまま反目しておると一族に被害が起きるやもしれん。
孫策もある程度覚悟はしておったのかもしれんが、孫一族にとってはかなり危険な状況であったわけだな。
そこで朱治は人を曲阿にやって、太妃と孫権兄弟とを迎え取らせ、丁重に保護を加えて甚だ周到な配慮をしたんじゃよ。
その後、朱治が銭唐から呉へと進出しようとすると、許貢が由拳でその行く手を遮ってきたので、朱治はこれと戦闘を交えて徹底的に破ったんじゃよ。
許貢は厳白虎の下へ逃げ、朱治は呉郡の役所に入ると、太守の職務に当たったんじゃ。
さらに朱治は孫堅が15の時、朱治は孫権を孝廉に推挙し、孫策が亡くなった時には張昭等と共に孫堅を盛り立てたんじゃよ。
すると202年、孫権は上表して朱治を呉郡太守に任じ、扶義将軍の職務に当たらせたんじゃよ。
同時期に孫権は討虜将軍、会稽太守とあったことから、朱治は立場的には孫権と同格であった訳なんじゃよ。このことからも朱治が呉の中ではちっと特殊な立場であったことが分かるじゃろうか。
さて、キリのよいところなので、今回はこの辺りにしようかのう。次は朱治の後半生、それと能力評価と行こうかのう。
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