さて、今回は朱治の紹介2回目じゃな。今回は朱治が孫権に仕えるようになった後のこと、それとできるならば能力評価、まではちょっと厳しいかのう。
さて、今回は朱治の紹介、2回目じゃな。
そう言えば曹操さんと夏侯惇さんの関係が、それに近かったのではないでしょうか?
そうだな、皆が魏国の臣下となっていく中、曹丞相は夏侯惇殿を漢朝の臣下のままとしておったな。
じゃがそれでも同じ漢朝臣下と言えど、序列に差はあったからのう。
人物紹介
孫権との関係
さて、孫権との関係じゃが、前回孫権と朱治の官位に明確な差が見られないことは、前回書いたとおりじゃが、孫権自身、様々な将軍位を歴任し、やがては呉王になったが、朱治が目通りに来ると、孫権自らが出迎え、笏を取って互いに拝礼を交わし、彼のために宴会を開き賜り物をする等、特に厚い待遇を加えておったんじゃよ。
更にこの待遇は朱治本人に留まらず、朱治のお付きの役人にまでが、皆捧げものをして孫権に個人的に目通りをすることが許された、とあるんじゃよ。
君主筋である孫権がここまで気を遣うと言うのは、なかなか普通ではないだろうな。
孫権は扶義将軍に任官した際、婁・由拳・無錫・毗陵を割いて彼に奉邑として与え、そこに代官をおいたんじゃよ。
彼は異民族や山越の討伐に当たって、東南の地を平定し、黄巾の残党の陳敗や万秉等をあるいは捕虜にし、あるいは打ち取ったんじゃよ。
皇族たちへの配慮
さて、朱治と孫権が特別な関係であることは既に書いた通りであるが、朱治は他にも、孫策、孫権の弟にあたる孫翊を孝廉に推挙しておるんじゃよ。
しかしこの孫翊と言う人物、兄の孫策によく似ておって、性急で容赦のない性格であったようなんじゃよ。
彼は喜怒の感情のままに振舞ったのであるが、朱治はしばしばそれを責め、道義を説いて教え諭した、とあるんじゃよ。
それでも結局孫翊は若くして暗殺されてしまう。孫策と言い性急で容赦のない性格と言うのは、どうしようもないのだな。
更に、孫権の従兄に当たる予章太守の孫賁じゃが、娘が曹操の息子の嫁になっていることから、曹操が荊州を手に入れて威勢が南方を震わせるようになると、心に恐れを抱き、息子を人質として魏へ差し出そうと考えるようになるんじゃよ。
このことを聞いた朱治は自ら願い出て孫賁の下へ目通りすると、孫賁に向かって情勢の成り行きを説明し、この諫めを受けて、孫賁は人質を送ることを取りやめた、と言うんじゃよ。
『江表伝』によるとこの時朱治は
「孫堅と孫策の活躍、孫権の英邁さを述べ、曹操は武力を頼んで漢王室を傾けさせ、北方は数多の戦乱と徴兵により飢餓状態にある、曹操が攻めてきたとて、どうして長江を越えて我が国と勝負を争ったりすることができましょうか。」
と言うようなことを述べるんじゃよ。
孫権の怒り
さて、そんな孫権と朱治の関係じゃが、ある時、孫権が朱治に対して強い不満を持ったことがあるんじゃ。
じゃが先にも書いておる通り、孫権と朱治の関係はちょっと特殊であり、孫権もおいそれと詰問できん状態であった。これにより孫権の怒りの気持ちは内攻するばかりであった、と言うんじゃ。
じゃがこの時はそんな孫権の状況を察知した諸葛瑾が、自問自答をしてみたいと申して、孫権の面前で孫権の立場として、広くものの道理を論じて(朱治を責め)、その後は遠くにいる朱治の立場に立って朱治側の理由を推量して弁解の手紙を書き、孫権に進上したんじゃよ。
孫権はこの内容を見て満足し、朱治に対するわだかまりも解けたようなんじゃよ。
この辺り、諸葛瑾のさり気に孫権も朱治も救う姿勢はさすが、諸葛亮の兄と言うべきだな。
確かにこの辺りの一種の操縦術とでも言うべき調整能力はたいしたもんじゃのう。なんだかんだで諸葛兄弟は似た者兄弟だったと思うんじゃよ。さて、そんなところで今回はここまでとしようかのう。やはり二回では終わらんかったのう。
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