三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

劉表(りゅうひょう) 字:景升(142~208)その2

さて、今回は劉表の紹介、2回目じゃな。前回で劉表の人物像に少し偽りの面があるのではと書いたが、今回はその辺りをさらに突っ込んで見ていくとしようかのう。

 

さて、今回は劉表の紹介2回目じゃな。ぐううむ。

どうも、張郃だ。どうした、何かめげているではないか。 

どうも師匠、昨日劉表の二回目をアップしたはずなのですが、そのデータがさっぱり消えているようなんです。

おかしいのう・・・昨日2時間ぐらいかけてテキスト起こしたんじゃが・・・。

そんなこと言っても無いものは仕方ないであろう。事故を防ぎたいのであればどこかに文章を残しておけばよかろう。 

そうですよ、さあどんどん行きましょう。

うむ、そうじゃな、それでは劉表の人物像についてもう少し突っ込んでみてみるとしよう。

人物紹介

袁術孫堅そして李傕・郭汜

荊州で兵力を集めることに成功した劉表じゃが、苦難はまだまだ続くんじゃよ。そう、丁度荊州を狙う袁術孫堅に命じて攻めてきたんじゃ。

この時の詳細は孫堅の紹介のところに載っておるので、そちらを読んでいただくと良いぞい。

さて、その孫堅の侵攻を孫堅を戦死させることで撃退に成功した劉表じゃが、彼に対してある人物達が触手を伸ばしてきたんじゃ。それが李傕と郭汜じゃな。

前回で董卓に任命された劉表董卓派だったのでは?と書いたが、この辺りも微妙にその説を後押ししているように思うな。

実際、李傕と郭汜は劉表を味方に付けようと、彼を鎮南将軍・荊州牧に任じて節(軍令違反の者を独自に処刑する権限)まで与え 、成武侯に取り立てているんじゃよ。

まあ、実際ここで劉表が李傕達にどう対応したのかは不明じゃが、後に出てくるエピソードが劉表の性格をよく表していると思うんじゃよ。

劉表曹操袁紹

さて、孫堅達を退けた劉表じゃが、丁度この頃献帝曹操の手により、許に移ったんじゃ。すると劉表献帝に貢物を行う一方、袁紹とも同盟を結んでいたんじゃ。

現代の我々の感覚で言うと曹操にも袁紹にも良い顔をしているように見えなくもない。

実際治中の鄧羲と言う人物がどっちつかずな態度は良くない、と言う感じで諫めたことがあるんじゃ。じゃが劉表は次のように言って鄧羲の諫めを退けるんじゃな。

「内(朝廷)に対しては貢物の献上を怠らず、外に対しては盟主(袁紹)をうらぎらず、これこそ最も筋の通った天下の道義である。

治中(鄧羲)一人がどうしておかしいと思うのだ。」

これにより鄧羲は病気を理由に辞職し、劉表生存中は決して出仕しなかった、ということじゃな。

劉表は恐らくじゃが当初曹操のことを歯牙にもかけなかったのではなかろうか。李傕や郭汜と同様、いずれは曹操袁紹に飲み込まれる勢力でしかない。

じゃから献帝に貢物を献上することが曹操へのおべっかを使っている、と言う感覚はなかったと思うんじゃよ。

とは言え、この辺りが一つは劉表が優柔不断とされる所以の一つであろうな。だがこれだけではないであろう?

張郃殿のおっしゃる通りじゃな。時系列を追って更に劉表伝を読んでいくとしようかのう。

荊州支配の抵抗勢力

劉表に対する脅威はさらに続き、続いて張済が荊州国境付近にやってきて攻めてきたんじゃが、彼もまた流れ矢に当たり、亡くなるんじゃ。

劉表は彼を礼を以て迎え入れるべきであった、と言い、張済配下の軍勢を受け入れ、急襲することに成功するんじゃ。

その後長沙太守の張羨が劉表に反旗を翻し、劉表は何年もこれを包囲したが落とせず、張羨が病死した後、息子の張懌が後を継いだが、引き続きこれを攻撃し、ついに併合することに成功したんじゃ。

これにより劉表は南方は零陵・桂陽を手中に収め、北方は漢川を抑え、その領域は数千里、武装兵は十万以上に及んだ、とかいてあるんじゃな。

ついに荊州の完全支配に成功したのですね。あれ、でも実は劉表は優柔不断ではないのでは、と言う話はまだなんですか。

うむ、問題となるのはここからじゃな。

劉表伝』では続けて、袁紹曹操が官渡で戦っていることを記しておるんじゃ。そこで袁紹は使者を送って、救援を要請したが、劉表は承諾しながら進発せず、また曹操側の応援もせずに、天下の趨勢を観望していた、と書いているんじゃよ。

これが劉表を優柔不断と決定づけさせる逸話だな。だが・・・じつはそう単純な話ではない。

そうじゃ、これは実は陳寿によって作られた劉表の人物像じゃな。陳寿もどのような意図があってやったのかは分からんが巧妙なことをやりおるのう。さて『劉表伝』の記述を順番に簡単にまとめてみるとしようかのう。

孫堅荊州に侵攻、これを撃退

②李傕・郭汜が劉表を味方にしようと画策

献帝が許に移り、劉表献帝袁紹共に従う

④張済が荊州侵攻、撃退して軍を吸収

⑤南方の張羨・張懌を攻めて併合、荊州の完全支配に及ぶ

袁紹からの援軍要請に応えず、形勢を観望

一見時系列順に並んでいるように見えるが、ここに陳寿の巧妙な罠が控えている。既に一度書かれているが、桓階殿の話をみると「官渡の時に張羨は劉表に反旗を翻し、数年劉表はこれを攻めている」となっている。

⑥の官渡の時に、まだ⑤の荊州支配は終わっていない。狙ってやったのかはわからんが、この並びがおかしいことが良く分かるであろう。

張郃殿の言う通り、桓階殿の紹介の所を見ると、官渡の戦いの時に桓階の進言によって張羨は劉表に対して反乱を起こした、とあるんじゃ。つまり⑥の時期、劉表は兵を北方へ向ける余裕はなかった、と言うことなんじゃな。

そもそも官渡の時はこちら(袁紹)側は兵力にかなりの余裕があり、劉表の援軍を必要とする状況ではなかったからな。この辺りの話も事実がどうなのか、怪しいものだ。全く・・・劉表よりも己の元の主人を持ち上げたいのか分からんが、随分姑息なことをやる。 

なるほど、荊州を支配したのに動かなかった、と言う印象を与えているのですね、実際はまだ支配していないのに・・・。

そう言うことじゃな。これとその次劉備との関係から更に劉表は貶められているように思うんじゃな。と言ったとこでキリが良いので今回はここまでに使用かのう。何とか昨日のところまで追いついたようじゃ。それでは次もまたよろしく頼むぞい。

 

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