さて、今回紹介するのは蔡瑁じゃな。字は不明なんじゃがWikiを見ると『襄陽記』に、徳珪となっているようなので採用させてもらったぞい。生没年は不明じゃな。荊州の有力豪族として、勢力を伸ばした人物じゃよ。
さて、今回は蔡瑁の紹介じゃな。
演義でも出てきますが結構小細工を行う人物、と言う印象が強いですね。
まあその辺りは元ネタもある話じゃからな。ただ事実かどうかで言うと微妙なところもあるんじゃよ。それでは蔡瑁について見ていくとしようかのう。
人物紹介
さて、荊州豪族であった蔡瑁じゃが『劉表伝』を見ると、荊州刺史になった劉表に呼ばれ、相談を受けるんじゃ。『戦略』によると、この際劉表が次のように尋ねるんじゃ。
「宗賊の勢いが非常に盛んな上、民衆は付き従わず、袁術はこの混乱を利用している。災難が今にも降りかかってくるであろう。わしは軍勢を招集したいと思うが、集まらないかと心配だ。どうしたら良いだろうか。」
これに対して蒯越や蒯良の答えは記録が残っておるんじゃが、蔡瑁がどのように回答したかは残っておらんのじゃ。残念じゃのう。
さて、蔡瑁のエピソードじゃが、『世語』によると、劉表は彼を手厚く遇したが、劉備の人柄を憚ってあまり信用しなかった、とあるんじゃ。
そこで劉備を招いて宴会を開いた時、蒯越と蔡瑁は劉備を討ち取ろうと謀り、これに気が付いた劉備は厠に行くふりをして逃走したんじゃ。この時乗った馬が的盧なんじゃ。
じゃが孫盛は主従関係がはっきりしているのに、劉表がそこまで警戒して暗殺しようとするのはあり得ない、と言っておるんじゃよ。
まあこれは孫盛の言う通りであろうな。いくらなんでも劉備とでは立場が違いすぎる。劉備を信用し過ぎなかったと言うのはあるだろうが、暗殺は行きすぎであろう。
ちなみに、演義では劉表の息子劉琮は蔡夫人の子供となっており、蔡瑁達が自分達の血を引く劉琮に跡を継がせようとしたように描かれておるが、実は劉琮の母親が誰かは分かっておらんのじゃよ。
ただ、蔡瑁・蔡夫人や他の多くの豪族も劉琦よりも劉琮を選んだ、と言うだけじゃろうな。そして劉琦は外へ出され、江夏太守に任命されるんじゃよ。
『典略』によると、劉表の病気が重くなると、劉琦が見舞いに帰ってきたが、蔡瑁達は跡継ぎについて劉表の気が変わるのを恐れ、
「将軍はあなたに江夏の鎮撫をご命令なさり、国の東の固めになさったのです。その任務は極めて重大であります。
いま軍勢を放り出しておいでになったのですから、きっとご立腹になるでしょう。親の期限を損ない、病気を重くさせるのは親孝行ではありません。」
と劉琦に劉表へ合わせなかったんじゃよ。
この辺りは少々コスいことをやっているな。とは言え混乱を引き起こさないようにするためには致し方ないか。
そうじゃな。臨終間際で後継問題がこじれるても混乱しか起きんからのう。
ちなみに三国志の方ではこの語はっきり書かれておらんが、Wikiに載っておる『襄陽記』の情報によると、魏でもかなりの高官及び爵位を得たようじゃのう。
それでは蔡瑁の人物評価は終わりじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼はもちろん全作品に登場じゃな。
能力評価
蔡瑁は蒯越らのような参謀ではないが、恐らく豪族としての人望などから荊州豪族を取りまとめていたと思われ、統率を高い評価としたんじゃよ。
また情勢を正確に判断し、曹操への降伏の道筋を定め、魏でも高位高官に上ったことから政治能力も統率に次ぐ評価としたんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、蔡瑁の能力評価じゃな。
三国志14と鄭問之三国志は武力・武勇が高めだな。一方お主と天舞三国志は低めだ。
天舞さんは采配(統率)も低いですね。その代わり仁徳が高いのは師匠と評価が似ているように思います。
そうじゃな、武勇・武力が高めなのは演義仕様じゃろうな。ワシは劉表配下で黄忠や黄祖と言った人物を入れて、充分戦える陣容にしておるが、演義ベースじゃと劉表陣営ではこれと言った武官はおらんからのう。
陣容内での調整で蔡瑁に軍事面の能力があてがわれた、と言うことだな。
まあ、蒯越・蒯良が知の代表となるじゃろうから、蔡瑁に軍事の能力があてがわれるのは必然なんじゃろうな。さて、蔡瑁についての評価はここまでじゃが、如何じゃったろうか。良ければ次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰ろう。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。