さて、今回紹介するのは向朗じゃな。向朗と書いて「しょうろう」と読むんじゃよ。字は巨達、生年は不明、没年は247年じゃな。蜀を代表する学者であるが、その才はどちらかと言えば実務の方で発揮されたようじゃな。
さて、今回紹介するのは向朗じゃな。
どうも、張郃だ。向朗と言えば、馬謖を庇ったことが原因で罷免された人物だったな。
うむ、ただ向朗については列伝はあるが、記述量は少ないんじゃな。これは蜀の人物全体の傾向と言えよう。
人物紹介
さて、向朗については劉表によって臨沮の長に任命されるんじゃ。その後劉表が亡くなると劉備に従い、劉備が江南を平定した後、向朗に秭帰や夷陵等、四県の軍事と民事を治めさせるんじゃ。
蜀平定後は巴西太守、しばらくして牂牁太守に、その後房陵太守に転任するんじゃよ。
劉禅が即位すると歩兵校尉、後に丞相長史となり、諸葛亮が南征した時には丞相府の仕事を取り仕切ったんじゃ。
その後諸葛亮の北伐に従うんじゃが、馬謖が逃亡した際、事情を知りながら黙認した、とあるんじゃ。これにより諸葛亮に恨まれ、免官されてしまうんじゃ。
馬謖が何時どのような状況で逃亡したのかが、史書の他の部分にも記述がないのではっきりしないな。
免官後は数年のんびりと何ごともなく暮らしておったようじゃが、諸葛亮の死後、左将軍に移り、過去の功績により顕明亭侯に封じられ、特進の位を授かったんじゃ。
特進は俺も授かった位だな、三公に次ぐ待遇と言うことで、かなりの高位と言うことになるぞ。
『襄陽記』によると、向朗は司馬徽に師事し学問を広く修め、龐統達とも仲が良かった、とあるんじゃ。じゃが年齢的には龐統よりも向朗の方が高かったようじゃな。
その後も典籍の研究に専念し、倦むことがなかった、とあるんじゃよ。
学問の研究は80歳を超えても衰えることはなく、手ずから書物の校勘をし、誤謬(ごびゅう)を訂正し、書物を収集することにかけては当時最大であったんじゃ。
上は政治の担当者より、下は子供に至るまで、皆彼を敬愛し尊重した、とあるからなかなかのもんじゃろう。
そして247年向朗は亡くなるんじゃ。80歳はゆうに超えておった訳じゃから、大往生と言えるじゃろうな。
さて、それでは向朗の人物評価は終わりじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼はもちろん全作品に登場じゃな。
能力評価
向朗は学者として名声を博しておるが、どちらかと言えば実務能力で評価を得ていたことから政治能力を高く評価したんじゃ。
またその名声の高さを人望の高さとして、統率も高めとしたんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、向朗の能力評価じゃな。
三国志14は政治に合わせて知謀もそれなりの高さになっているな。
天舞さんと師匠は知謀・策略面は低いのですね。
そうじゃな、コーエーテクモさんの場合、武力と統率、知謀と政治は大体セットでどちらかが高ければもう一方もそれなりの高さになるでのう。
まあ実際、能吏ではあったと思うが、作戦参謀と言うタイプではなさそうだからな。
そう言うことじゃな。優秀な官僚と言ったところじゃろうか。さて、向朗についてここまでじゃが、如何じゃったろうか。良ければ次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰ろう。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。