三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

杜夔(とき) 字:公良(?~?)その1

さて、今回紹介する人物は杜夔じゃな。字は公良、生没年は不明じゃな。彼は知名度としては無名の部類に属する人物なんじゃが、実は後漢においてかなり重要なことを成し遂げた人物だったんじゃよ。

 

さて、今回は杜夔の紹介じゃな。

どうも、張郃だ。ふむ、軍謀祭酒殿か、これはまた渋い人物が出てきたな。 

「とき」と読むんですね。軍謀祭酒、と言うことは参謀だった、と言うことでしょうか?

うむ、その辺りは追々紹介するとしようか。それでは杜夔について見ていくとしようかのう

人物紹介

若き頃の杜夔

さて、杜夔じゃが彼は魏志方技伝の中に『杜夔伝』はあるんじゃ。

方技伝でピンときた方もいるかもしれんが、ここに名を残している人物は他の人が持っていない特殊技能を持った人物達を収めておるんじゃ。

有名なところでは神医と呼ばれた華佗とかだな。杜夔殿も華佗とは別の方面で大きな足跡を残した人物だな。

さて、杜夔の才能は音楽方面に通じていることで高い名声を博しておったんじゃ。

霊帝の時代、音楽に通じていることから雅楽郎に任じられていたんじゃ。じゃが188年(中平五年)病気のため、官を去ったんじゃ。

州や郡の役所や司徒の幕府から手厚い任官の申し入れはあったんじゃが、世の中の乱れが激しくなったことから荊州に移住したんじゃよ。

この時荊州牧であった劉表は杜夔を招聘し、孟曜と共同して漢の(天子を自分の下に迎えるための準備として)天子のための宮廷用のオーケストラを編成するよう命じたんじゃ。

オーケストラの編成が出来上がると、劉表は役所の前庭でそれを演奏させてみようとしたんじゃ。

じゃが、ここで杜夔は異を唱えるんじゃ。

「今将軍(劉表)は天子のためにオーケストラを準備すると申されておりますのに、ご自分の前庭でその演奏を行ってしまって良いものでしょうか。」

劉表はその言を入れて、演奏をやめるんじゃよ。

その後、劉琮の代になって曹操に降伏してから、杜夔は魏の宮廷に入るんじゃが、曹操は彼御才能を評価し、軍謀祭酒の任につけ、太楽(宮中の音楽)のことに携わり、宮廷用の音楽を新たに制定するようにと命じたんじゃよ。

曹操時代の杜夔

さて、杜夔の才能じゃが、かれは優れた音程感覚を持ち、並外れた鋭い耳を持っていて、弦楽器・管楽器等、八種類の楽器も全て演奏できたんじゃが、ただ歌と舞だけはあまり巧みではなかったんじゃよ。

当時散郎(特別の任務のない郎)であった鄧静と尹斉は雅楽を詠ずるのに長じ、歌師の尹胡は宗廟郊祀の曲をちゃんと歌うことができ、また舞師の馮粛と服養は先代からの色々な舞に通暁していたんじゃ。

杜夔は彼らの上に立って、色々な技芸を精しく考究し、古くは経典の文句に基づき、近い時代では種々の事例を参考にして、芸能者達を養成教育し、楽器も作り揃えたんじゃよ。

丁度この時代、曹操の庇護の下で建安の七子等、文化が花開く時代でもあったからな。その一翼を杜夔殿は担っていた、とも言えるな。

こうして、黄初年間に彼は太楽令・教律都尉となったんじゃ。

ここから、こまごまとしたエピソードがあるんじゃが、丁度キリの良いところでもあるので、今回はここまでとしようかのう。次からは激動の後半生となるぞい。

 

 ↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい