さて、今回紹介するのは張脩じゃな。字や生没年は不明なんじゃが、Wikiを見ると没年が189年となっているんじゃよ。信ぴょう性は分からんが、一応そちらに準拠させてもらったぞい。
さて、今回は張脩と言う人物の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。189年が没年だとすると、この時すでにいないことになるが、それは良いのか?
確かに今紹介しているのは191年ですから、二年前に亡くなっていることになりますね。
そうじゃが、実は彼は張魯の五斗米道と非常に深いかかわりを持っておるようなんじゃ。その成立過程を考察するためにも敢えてここで出てもらったんじゃよ。
人物紹介
張脩と張魯
時代は丁度劉焉が益州牧となった頃の話じゃ。
劉焉も劉表と同様に当時益州内に存在する各地の勢力との軋轢が多かったんじゃ。
魏志『張魯伝』を紐解くと、劉焉は張魯を督義司馬に任命し、別部司馬の張脩と共に軍隊を率いて、漢中太守の蘇固を攻撃させたんじゃ。
これは成功し、蘇固を討伐することに成功するんじゃ。
じゃが、ここで張脩と張魯の間に何らかの亀裂が生じるんじゃ。
そして張魯は張脩を襲撃して殺害し、その軍勢を奪い取った、とあるんじゃよ。
張魯が張脩を襲った理由と言うのが少し気になるな。
そうじゃな、そこについて少し考察をしてみるとしようかのう。
張脩と言う人物について
さて、この張脩と言う人物、『典略』を見たところ、東方に張角の「太平道」、漢中に張脩の「五斗米道」と言われるぐらい、当時名が通っておったようなんじゃ。
張脩のやり方は、静かな部屋を設け、その中へ病人を入れて過失を反省させると言うものだったようじゃ。
更に姦令祭酒の役を置いたんじゃが、祭酒は『老子』五千字を習熟させることを役目としたんじゃよ。さらに鬼吏を置いたんじゃが、これは病人のために祈祷させたりする役割だったようじゃな。
病人の家からは五斗の米を供出させるのを条例とし、そのために五斗米師と号したんじゃよ。
まあ、実際には何の効果もない、でたらめであったらしいが、無知な一般人はこれに騙されてあっさりと仕えておったようだな。
どうも張魯は張脩亡き後も、漢中の住民がこの信仰に従っていることから、この教えを引き継ぎ、手を加えたようじゃな。
裴松之は『典略』に書かれる張脩を、張魯の父の張衝と書き間違えている、と言っているんじゃが、他の書物との関係からこの説は否定されておるんじゃ。何故裴松之がこんなことを言ったのかは、張魯の紹介のところで解説するとしようかのう。
さて、張脩に関してはまだ謎な部分も多いんじゃが、人物紹介はここで終わりじゃな。続けて能力評価と行こうかの。今回はワシのみに登場じゃな。
能力評価
張脩は別部司馬として蘇固を攻めていることから軍事面が比較的高めの評価なんじゃ。別部司馬と言うことは別軍の指揮官と言うことで奇襲をかける役割も担うことから知謀もそれなりじゃな。
じゃが一番の功績は五斗米道を興し、漢中でそれを広めた実績じゃな。とは言え張魯に攻められ実績がほとんど残っておらんことから少し抑え目の評価なんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、張脩の能力評価じゃな。
ふむ、張魯との関係は気になるが、能力はこんなもの・・・か?
張郃さん、ちょっと何か引っかかっている感じですか。
うむ、いや宗教団体の教祖だから、こやつの場合もう少し統率を高くしそうに思ったのでな。
まあ、そこは張魯との兼ね合いもあることじゃからな。張魯の紹介で解説させてもらうとしようかのう。さて、張脩についての評価はここまでじゃが如何だったであろうか。良ければ次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。