三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

張魯(ちょうろ) 字:公祺(?~216)その1

さて、今回紹介するのは張魯じゃな。字は公祺、生年は不明じゃが没年は216年じゃな。知る人ぞ知る漢中に割拠しておった五斗米道の教祖、道教のある宗派の祖とも言われておる大物の一人じゃな。

 

さて、今回は張魯の紹介じゃな。

どうも、張郃だ。演義だとチョイ役でしかないが、宗教的に見るとかなりの大物の一人であるな。 

演義だと確かにそこまで深くは掘り下げていないですね。

そうじゃな、こうやって見ると後漢から三国志の時代は文化的宗教的に、非常に面白い時代であったと言えそうじゃろうな。それでは何回かに分けてみていくとしようかのう

人物紹介

張脩と張魯

さて、張脩の所でも書いたが、張脩との関係を見ていくとしようかのう。

まず張魯の祖父についてじゃが、張陵と言い蜀に身を寄せ鵠鳴山の山中で道術を学び、道術の書物を著して人民を惑わした、とあるんじゃ。

彼の下で道術を学ぶ者は五斗の米をお礼に出した、とあるんじゃよ。

そして張陵が亡くなると、息子の張衝がその道術を行ったとあり、張衝が亡くなると張魯がそれを引き継いだ、とあるんじゃよ。

この辺りが裴松之のボーヤが張脩は張衝と書き間違えである、と言い出した要因だな。

そうじゃな、陳寿の書いているこの記述、それがすべて正しい訳ではない、と言うことは注釈を付けた裴松之が一番分かっているはずなんじゃがなあ

張脩と言う人物について

さて、この張脩と言う人物、『典略』を見たところ、東方に張角の「太平道」、漢中に張脩の「五斗米道」と言われるぐらい、当時名が通っておったようなんじゃ。

張脩のやり方は、静かな部屋を設け、その中へ病人を入れて過失を反省させると言うものだったようじゃ。

更に姦令祭酒の役を置いたんじゃが、祭酒は『老子』五千字を習熟させることを役目としたんじゃよ。さらに鬼吏を置いたんじゃが、これは病人のために祈祷させたりする役割だったようじゃな。

病人の家からは五斗の米を供出させるのを条例とし、そのために五斗米師と号したんじゃよ。

同じ時期に同じ蜀の地で、同じ五斗を名乗る宗教が発展する、と言うのは考えにくいだろう。つまりどちらかがウソをついていることになる。

裴松之は『典略』に書かれる張脩を、張魯の父の張衝と書き間違えている、と言っているんじゃが、他の書物との関係からこの説は否定されており、張脩がこの五斗米道の実質的な祖と見てよいようなんじゃ。

そう考えると張魯の父と祖父の事績と言うのは、恐らく張魯が張脩の五斗米道を乗っ取るための体の良い言い訳、経歴詐称の可能性が高いのではなかろうか。

張魯の母

さて、張魯の父と祖父についての経歴には怪しい部分があるんじゃが、張魯の母は当時の益州牧である劉焉の家に出入りし、劉焉に取り入った、とあるんじゃよ。

蒼天航路』を見ると実年齢以上に若く見えた、と言うことだが実際はどうなんだろうな。

張魯の母がどのように劉焉に取り入ったのかは分からんが、だが劉焉が亡くなり、劉璋へ代替わりするとこの関係が大きく変わるんじゃよ。

張魯劉璋には従わず漢中にて独立を果たしたんじゃな。これにより両社の関係は悪化し、張魯服従しない、と言う理由で劉璋張魯の母と家族を皆殺しにしたんじゃよ。

劉璋はたびたび龐羲等を派遣して、張魯を攻めたようなんじゃが、打ち破られた、とのことじゃな。結構張魯の軍勢は強敵だったと言うことなんじゃよ。

蜀志『劉璋伝』を見ると、張魯の軍勢は巴西に私兵の多くが結集していたことから、龐羲を巴西太守に任じて、軍を率いて張魯を防がせておった、とのことじゃな。

さて、張魯と張脩の関係についてのまとめで一回目がほぼ終わってしまったが、次は五斗米道の教義、そしてその後の張魯の事績について追いかけていくとしようかのう。

 

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