さて、今回紹介するのは張魯の2回目じゃな。今回は漢中にてどのような統治をおこなっていたのかを中心に紹介していくぞい。
さて、今回は張魯の具体的な統治内容についてじゃな。
どうも、張郃だ。張魯に関しては結構詳細に記述することになりそうだな。
それだけ重要な人物と言うことでしょうか。
そうじゃな。実際にどのような統治をおこなっていたのかと言うのは、この時代の優れた統治方法がどのようであったかの参考にもなるからのう。それでは早速見ていくとしようかのう。
人物紹介
鬼卒と祭酒
さて、まずは呼び名じゃが、張魯は自らのことを「師君」と号しておったんじゃよ。
そして道術を習いに訪れた者に対して、最初は全て「鬼卒」と呼んでおったんじゃよ。
「鬼卒」の立場におった者で、本格的に道術を授けられ、信心するようになった者を「祭酒」と呼ぶようになったんじゃよ。
一般の信者と役職を持った立場の人間と言ったところだな。
さて、「祭酒」となった人物はそれぞれ一団の信者を支配するようになったんじゃが、団の人数が多い者を特に「治頭大祭酒」と呼んだんじゃよ。
祭酒の役割
さて、祭酒の役割じゃが、彼らは皆義舎(駅舎のようなもの)を作り、また義捐の米肉を設け、義舎にぶら下げておき、旅人に腹の空き加減を計算して、満腹するだけのものを取らせたんじゃ。
じゃが、もしも必要以上に取った場合には、妖術でたちまち病気をもたらすと言う者なんじゃ・・・じゃが。
まあ、張脩の所にも少し書いたが、食い意地が悪く必要以上に取って食えば、腹痛を起こす確率は高くなる。この辺りは別に妖術でも何でもない、と言う話だな。
規則に違反した者は、三度まで許され、その後初めて刑罰を受けた、とのことじゃな。
長吏(県の高官)は置かず、全て祭酒によって治めさせておったんじゃよ。まあ実質彼らが名前を変えた官吏であった訳じゃが、庶民も蛮民もそれを便利として喜んだとあるんじゃ。
まあ二重管理の弊害が無いから、これはこれでありなんじゃろう。それにしてもこの辺りの記述は実は蒼天航路にもほとんど載っていることなんじゃよ。別にあれを正史三国志と言うつもりはないが、正史のことを良く調べて描いていると思うぞい。
張魯の野望?
師君である張魯の下、祭酒たちの手によって漢中は統治され、数十年に渡り、巴・漢中の地を押さえて覇を唱えておったんじゃ。
一方、この張魯に対して、後漢王朝は征伐するだけの力がなく、張魯の下に使者を送り、鎮民中郎将に任じ、漢寧太守の官に付け、貢物を献上する義務だけを課すという恩寵を与えたんじゃよ。
さて、こうなると張魯も大いなる野望を抱くようになった・・・のかもしれんのう。それはもちろん、他の諸侯いずれもが通った道、王位への欲望じゃな。
ある時住民で地中から玉印を手に入れて献上した者がおり、部下達は張魯に漢寧王の尊号を得ることを望んだんじゃ。
じゃが、張魯はここで閻圃と言う人物の意見に従い、王位になることはなかったんじゃ。そしてそれが後に張魯の身を救うことにも繋がるんじゃよ。
もしここで、張魯が王を名乗っていた場合、他の諸侯同様、許されることなく処刑された可能性もあった訳じゃから、これは閻圃のファインプレーと言えるじゃろうな。
とは言え事実上漢中の王と言っても良いだけの勢力を築いた張魯。しかし遂にここにも軍靴の音が響くようになるんじゃ。もちろんその相手は曹操・劉備じゃな。と言ったところで、キリが良いので今回は終わりとしようかのう。それでは次もまたよろしく頼むぞい。
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