さて、今回は張魯の紹介3回目じゃな。今回は曹操の漢中侵攻時のエピソードと、できれば能力評価まで行きたいのう。
さて、張魯の紹介も3回目じゃな。
確かにあとは曹操の漢ちゅう征伐ぐらいと考えると、あっという間に終わってしまいそうですね。
さて、それはどうかのう。この征伐は裴松之の注釈を見る限り、かなりの難行であったようじゃからな。
そんなに苦労したのですか。
この辺りは天険の要塞じゃからのう。蜀が40年以上国を保つことができた大きな要因でもある訳じゃ。それでは見ていくとしようかのう。
人物紹介
曹操の漢中征伐
215年、曹操は散関から武都にでて張魯討伐に向かい、陽平関まで達したんじゃ。張魯は漢中をあげて降伏しようとしたんじゃが、弟の張衛が承知せず、軍勢数万を率いて陽平関を防禦し、守りを固めたんじゃ。
しかし実際に箱の一文では片付けられないほど、此度の遠征は苦労しているのだがな。
そうじゃな、まず陽平関に達する前に、張郃殿はまず抵抗する氐族の王竇茂を討伐し、更に散関から漢中に侵攻する際、曹操は張郃殿に五千の兵を指揮させて先発させ、道路を通じるようにさせた、とあるんじゃよ。
陽平関の死闘
『魏名臣奏』に董昭の上奏文が載っておるんじゃが、そこには武都の降伏者から、陽平の城下は南北ともに山から遠く隔たっており、攻撃するのは容易である、と言う言質を取っておったんじゃ。
曹操もその気になっていたんじゃが、現地に着くと聞いていたのと大違いであり、
「他人の判断が自分の考えと同じであることは少ないものだ。」と嘆いたんじゃよ。
案の定、攻め手は苦戦し兵士達の中に多数の負傷者が出たありさまだったんじゃ。
そこで曹操はすぐに帰還しようと考え、許褚を派遣して山上にいる軍勢を呼び戻すよう命じるんじゃ。
じゃが前衛部隊が帰り着かない内に夜中になって道に迷い、誤って敵陣に飛び込んでしまったんじゃ。
じゃがこれが功を奏し、敵は奇襲を受けたと思ってちりぢりに逃げてしまったんじゃよ。侍中の辛毗・劉曄は夏侯惇達に敵が逃げ散り、重要拠点を押さえたことを伝えたんじゃが、さすがの彼等も当初はその話を信じなかったようじゃな。
退却していたはずが敵陣がいつの間にか落ちていた訳だからな。無理もあるまい。
ウソみたいな逸話なんじゃが、董昭の上奏文に書かれていることじゃし、しかも彼は最後に
「これは最近の出来事であり、兵士たちが皆知っていることでございます。」
と書いているだけに無碍にできない話ではなかろうか。
また楊曁の上奏文にも
「地勢険固で守備側に有利な土地、我が軍に精鋭の兵士や勇猛な将軍がいても手の打ちようのない状態でした。」
と書かれており、漢中で要害に立てこもった敵陣を攻め落とすのは容易ではなかった、と言うことじゃな。
とは言え、何とか曹操は陽平関を落とし、張魯を追い詰めるんじゃ
戦後処理
張魯は陽平関が落ちたことで、すぐに降伏しようとするんじゃが、それを止めたのが先に出てきた閻圃なんじゃな。
「今、追い詰められた状態で出向いて行ったならばきっと評価が小さくなりましょう。一度抵抗した後で臣礼したならば、必ずや評価は高くなりましょう。」
また張魯は逃亡する際に宝物や貨財の入った蔵を「宝物貨財の入った蔵は国家の物だ。」と言い、焼き払わず封印して立ち去ったんじゃ。
この処置に感心した曹操は使者を立てて慰撫し、張魯が出頭してくると鎮南将軍の位を授け、閬中侯に取り立てて一万戸を与えた、とあるんじゃ。
この時期一番戸数の高かったであろう夏侯惇殿でも2500戸とかの時代であるから、まさに破格の扱いだな。
更に張魯が王位に就くことに反対し、討伐戦の際に的確な助言をした閻圃も高く曹操に評価され、彼もまた列侯に取り立てた、とあるんじゃよ。閻圃についてはまた別に詳しく解説しようかのう。
さて、張魯じゃが曹操に降伏した次の年、216年に逝去するんじゃ。じゃが道教の一派の祖として張魯の名前は残り続けることとなったんじゃよ。
それでは張魯の人物評価は終わりじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼はもちろん全作品に登場じゃな。
能力評価
張魯の一番の特徴は五斗米道にて多数の信徒を引き入れ、漢中に一大王国を築き、数十年に渡り君臨した点じゃろうな。人を心服させる魅力は劉備にも少し通じるところがあるのではなかろうか。
信徒を率いる統率力から当然統率は高く、また統治も行き渡り、民間人。蛮族問わず歓迎した点から、政治能力の評価も高くしたんじゃよ。統率と政治の合計値なら劉備以上と言っても良いぐらいの人物と言えるじゃろうな。
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雑談ぢゃ
さて、張魯の能力評価じゃな。
これは分かり易いな。魅力に該当する能力のない鄭問三国志を除けば、皆魅力統率系の能力が高い値となっている。
あと政治が高いのも共通ですね。鄭問さんは知謀の方が政治より高いですが、他は政治の方が高いのも共通ですね。
どちらかと言えば独自の見事な統治等はやはり政治力として反映させておきたいからのう。もう亡くなっておるから評価はしておらんが、もし生きておれば、張角も似たような評価だったのではなかろうか。
まあ張魯を攻める際は苦労させられたからな。高くて不都合なことは全くないぞ。
父や祖父の経歴に関しては正直どうかと思う部分もなくはないが、本人自身の才格は見事なものだったと思うぞい。さて、張魯の紹介はここまでじゃが、如何じゃったろうか。良ければ次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰ろう。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。