さて、今回は張衛の紹介じゃな。字や生没年は不明じゃ。姓を見ると分かるように張魯の一族じゃな。彼はどう言ったことをやった人物なのか、見ていくとしようかのう。
さて、今回は張衛の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。張魯の弟だな。やつの守る砦には難儀させられたぞ。
張郃さんでも苦戦すると言うのはなかなか強敵だったのですね。
まあ天険の地故、防衛し易いという面はあったと思うんじゃがな。ただそれでもきちんと指揮できなければ守れるもんも守れんくなるでのう。史料によって内容が少し違うようなので、情報をうまくまとめていくとしようかのう。
人物紹介
曹操の漢中征伐
215年、曹操は散関から武都にでて張魯討伐に向かい、陽平関まで達したんじゃ。魏志『張魯伝』を見ると、張魯は漢中をあげて降伏しようとしたんじゃが、弟の張衛が承知せず、軍勢数万を率いて陽平関を防禦し、守りを固めたんじゃ。
『武帝紀』によると、この時守りには張衛以外にも楊昂や楊任等を陽平関に立てこもらせたんじゃ。
彼らは山を横切って十余里にわたり城を築いており、攻撃したが落とせなかったんじゃ。
『魏名臣奏』の董昭の上表文によると、曹操は多数の負傷者が出るにあたり、意気阻喪してしまい、すぐに軍勢を引き揚げ帰還しようと考え、許褚を派遣して山上にいる軍勢を呼び戻すよう命じるんじゃ。
じゃが前衛部隊が帰り着かない内に夜中になって道に迷い、誤って敵陣に飛び込んでしまったんじゃ。じゃがこれが功を奏し、敵は奇襲を受けたと思ってちりぢりに逃げてしまったんじゃよ。
また『世語』によると、この時野生の鹿数千頭が張衛の陣営を突き壊したので、張衛の軍はびっくり仰天したんじゃ。丁度その際、高祚が誤って張衛の軍勢と出くわしたんじゃ。じゃが、高祚らは盛んに軍鼓を打ち鳴らして軍勢を集めたんじゃ。
張衛は大軍に急襲されたと恐れおののき降伏した、とあるんじゃ。
『武帝紀』を見ると、曹操は高祚・解ヒョウに険しい山を登らせて夜襲させ、これを散々に打ち破り、将の一人、楊任を斬ることに成功したんじゃよ。
この時は高祚らに山を攻めさせるもうまく行かず、退却しようとしたところで高祚が張衛の軍と鉢合わせし、これを撃ち破ることに成功した、偶発的な勝利であった。
曹丞相の指示で夜襲をかけさせた、と言う話は結果としてそう言うことにしただけであろうな。
さて、降伏した後の張衛について、史書の方では記録が見えんのじゃが、ネット情報によると、どうやら兄の張魯同様曹操に取り立てられたようじゃな。
それでは張衛の人物紹介は終わりじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼はもちろん全作品に登場じゃな。
能力評価
張衛の強みは防衛有利とは言え、曹操軍の精兵を跳ね返した防衛力の高さであろうな。張魯もそうじゃが、非常に統率が高く、張魯軍の強みと言えるであろう。
じゃがその一方、敵の誤侵入を奇襲と勘違いし、降伏してしまったことにより、知謀はちと抑えめの評価じゃな。また攻撃側での実績は少ないことから、軍事も統率よりは少し抑え目としたんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、張衛の能力評価じゃな。
ふむ、天舞三国志がやや能力が低いように感じるな。
師匠と三国志14では統率がなかなかの評価になっていますね。
まあ曹操軍の猛攻を凌いでいる点からも、あまり低い評価と言う訳にもいかんしのう。
まあ、普通に優秀な人物であったからな。運が悪かったとも言える。『世語』の鹿の話は失笑ものだがな。
それにしても、張魯が漢中から手を広げられなかったのも、軍事能力の高い武将が少なかったことも関係ありそうじゃのう。恐らく張衛が張魯軍で一番手の武将のはずじゃからな。さて張衛の紹介はここまでじゃが、如何じゃったろうか。良ければ次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰ろう。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。