さて、今回紹介するのは楊昂じゃな。字や生没年は不明じゃ。彼も既に名前が出てきておると思うが、ちゃんと調べてみたところ、意外な人物と繋がりがあったようじゃのう。
さて、今回は楊昂の紹介じゃな。
上で書いている意外な人物との繋がり、と言うのはどなたのことでしょうか。
ふむ、それは紹介のところで語るとしようかのう。
人物紹介
楊昂は張魯配下であったことから『張魯伝』に記録が残っていると思いきや、意外なところに名前が出てきておったんじゃよ。
魏志『楊阜伝』を見ると、渭水の戦いで曹操に敗れた馬超は逃走をするんじゃが、その後、曹操が帰還すると隴上の郡県を攻撃しだし、彼らは皆馬超に協力するようになったんじゃ。
じゃがここで冀城だけが州郡の刺史・太守を奉じて固守するんじゃよ。
馬超は隴右の軍勢を全て合わせて冀城を攻撃するんじゃが、この時、張魯の大将楊昂が派遣され、馬超を助けていたんじゃよ。この時馬超は一万以上となる軍勢を率いて冀城を攻撃するんじゃ。
この戦いは熾烈を極め、正月に始まった攻防が八月まで続くことになるんじゃよ。
この時関中方面を統括していたのは夏侯淵殿だが、この時期はまだ節鉞がなく、独自の判断で軍団を動かすことができなかったのだ。そのため丞相への裁可を仰ぐ時間がかかったことで救援が遅れてしまったのだな。
本来であれば、奇襲急襲を得意とする夏侯淵にしてみれば動きたくとも動けない、と言うこの状況は非常に歯がゆかったであろうな。
一方、歯がゆかったのは馬超も同じで、大軍で城を包囲するも城はなかなか落ちず、内心イライラを募らせておったように思うんじゃよ。
じゃが、救援を求めようと密かに城外に脱出させた人物も馬超に捕まり殺害され、八ヶ月に経っても救援が来ないことから、遂に刺史と太守も降伏を考えるようになるんじゃよ。
楊阜はこれを必死に留めようと諫めるんじゃが、刺史と太守は人をやって和議を請い、遂に馬超を城に入れてしまうんじゃ。
演義とは違い、正史の馬超は非常に危険な男だ。これが最悪の悪手となってしまった。
先にイライラが募っている、と書いたがその理由は、この時馬超は和議を結んだ相手であったにも関わらず、この太守と刺史を楊昂に殺害させてしまうからなんじゃよ。
そして楊昂は恐らく本人の意思ではなかったのであろうが、和議を結んだ相手を理不尽にも殺害してしまう実行犯として、汚名を着ることとなってしまったんじゃな。
先に閻圃のところで馬超の妻子が酷い目にあっているが、馬超のこの行いを考えるとさすがに自業自得としか言いようがないであろう。さすがの丞相も馬超は降伏してきたとしても赦すことはなかったのではないか。
その後、曹操の漢中征伐時に、張衛と共に陽平関の守りに就くんじゃが、敗北してからの楊昂の所在は不明じゃな。もしかしたら刺史と太守殺害の罪を受けていたかもしれんのう。
さて、楊昂の人物紹介は終わりじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼は鄭問三国志以外の作品に登場じゃな。
能力評価
楊昂は張魯軍を代表とする武将であり、そのため馬超の援軍にも赴いたと考えられることから、特に軍事面の評価を高くしたんじゃ。統率の高い張衛とは対の関係じゃな。
じゃがその一方で馬超の指示により太守と指示を殺害してしまっていることから、知謀は特に抑えめの評価とさせてもらったんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、楊昂の能力評価じゃな。
ふむ、張衛との比較で言うとお主と三国志14では張衛が統率、楊昂は武力・軍事が高いのは共通だな。
天舞三国志では張英は人徳が高いタイプなので、張魯を小粒にしたような感じですね。
ワシの評価も実は似た部分があるんじゃよ、統率には人を引き付ける要素も評価基準に入っておるからのう。
劉備とかも統率が特に高かったりするからな。まああまり評価を細かくしても煩雑になるからな。
そうじゃな。さて楊昂の紹介はここまでじゃが、如何じゃったろうか。良ければ次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰ろう。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。