さて、今回紹介するのは李権じゃな。字は伯予、生没年は不明じゃ。字がはっきりしてると言うことは、結構名の知れた人物、と言うことになるが、誰かわかるかのう。
さて、今回紹介するのは李権じゃな。
どうも、張郃だ。李権と言われてもパッと理解できる人物はあまり多くはないかもしれんな。とは言え、ある人物と関連付けるとああ、となるかもしれんがな。
と言うことは張郃さんはどんな人物だったか、誰と関わりがあるかわかっているんですね。でも私の場合は全然覚えがありませんね。
ふむ、ある人物との関わりと言っても直接的ではないからのう。それでは李権について見ていくとしようかのう。
人物紹介
若き?日のエピソード
実際にいつ頃の話かははっきりしないんじゃが、『秦宓伝』を紐解くと、ある時李権が秦宓から『戦国策』を借りようとしたんじゃ。
秦宓が一体何に使うつもりなのかと尋ねると李権は
孔子と厳平は多くの書籍を収集して『春秋』と『指帰』の文章を作成した、と言いこれに倣い自身の知識を広げていこうと考えている旨を伝えるんじゃ。
じゃが、秦宓は『戦国策』はしょせん人を殺し亡ぼして、自ら生き存ずることを繰り返し述べているだけで、経典の忌み嫌うところ、だから孔子は礼に合しない『戦国策』には目もくれず『春秋』を作り、『孝経』を作って広く徳行を説いたのです。
と言って、李権を諭したんじゃよ。
まあ『戦国策』にて戦い方の知識を得る分には何も問題なかったのであろうが、孔子を引き合いに出したのはまずかったな。やろうとしていることの意味を取り違えてしまっている。
劉焉との確執
さて、頭は悪くなかったのであろうが、ちょっとずれた視点を持っておった(個人的にはこういう人物は嫌いではないんじゃがのう)李権じゃが、劉焉が益州牧となって赴任してきてから風向きが変わってしまうんじゃ。
当初は益州豪族と協調路線をとるかに見えた劉焉じゃが、北方から大量に流入してくる移民や自らの中核となる東州兵を得るに当たって、益州豪族たちに牙をむき始めるんじゃ。
李権は何かのことにかこつける形で劉焉によって処刑された、とあるんじゃ。この時益州豪族は10人余りが犠牲になった、とあることから、劉表の荊州同様、劉焉もかなりの野心家であった、と言うことじゃろうな。
劉焉は張魯に漢中を任せ、雍州と益州を繋ぐ橋を落とさせるなどして独立横行を築いたからな。したたかな男だ。
これにより李権は亡くなるんじゃが、彼の子は後に大きな出来事に関わってくるんじゃよ。
五丈原にて
さて、彼の息子は李福と言い、と聞くとピンと来た人もいるかもしれんのう。そうじゃ、諸葛亮が五丈原で息を引き取る前、劉禅からの遣いで諸葛亮に会い、諸葛亮死後の政局をどうするか相談していた人物じゃな。
この辺りの描写は演義でもほぼ同様に描かれているから、記憶に残っている人物は多いかもしれないな。それにしても最後まで引っ張るとはな、もったいぶらせすぎだぞ。
まあまあ、良いではありませんか。こう言う意外なところの繋がりと言うのは、まだまだ知らないことが多いな、と好奇心を刺激させますからのう。さて李権の人物紹介は終わりじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼はワシのみの評価じゃな。
能力評価
李権じゃが、息子の李福は知識豊かでかなり優秀だったそうじゃが、父の李権も多少ずれた部分はあったのじゃろうが同様に優秀な人物だったのではなかろうか。
劉焉が益州豪族と協調路線を取っておればまた違った未来があったんじゃろうが、そうならなかったのは残念な話じゃな。
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雑談ぢゃ
さて、李権の能力評価じゃな。
ふむ、豪族だから、と言うことで政治はある程度高く評価しているのだな。少々ずれたところがあったのは知謀を抑えめにしたことで表した、と言ったところか。
それにしても劉焉はどうして弾圧するようになったのですかね。
はっきりとは分からんが、君主権力と豪族の権益は、常に綱引きのような関係にあるからのう。
まあ豪族が力を持ちすぎると、いつ国家がひっくり返されるか分からんからな。その辺りのバランスは難しいもんだ。
そうじゃな。さて李権の紹介はここまでじゃが、如何じゃったろうか。たいしたことは書いておらんが、良ければ次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰ろう。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。