三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

劉焉(りゅうえん) 字:君郎(?~194)その1

さて、今回は劉焉の紹介じゃな。字は君郎、刺年は不明じゃが、没年は194年となっているんじゃよ。益州を支配した大物じゃが、実はあまり知られていない人物じゃな。

 

さて、今回紹介するのは劉焉じゃな。

どうも、張郃だ。いよいよ大物の登場だな。 

演義では好々爺然とした人物、と言う印象がありますね。確か最初の方に出てきましたよね。

うむ、丁度劉備が挙兵した時の幽州刺史が劉焉じゃったからのう。ここで取り立てた劉備が、後に息子の劉璋から国を奪うと言う、見事な伏線が出来上がっておるんじゃよ

なるほど、幽州のトップを劉虞でなくわざわざ劉焉にしたのはそのためなんですね。

演義は案外こういった細かい伏線のために、史実とは違うシチュエーションにしているんじゃ。そう言う違いを見つけるのもまた一つの楽しみじゃろうな

人物紹介

若き日の劉焉

蜀志『劉焉伝』を見ると、劉焉は江夏郡竟陵(きょうりょう)県の出身なんじゃよ。

祖先を辿ると前漢の魯の恭王の末裔で、後漢の章帝の代に竟陵に国替えされて、分家がここに居を定めた、とあるんじゃ。

じゃがこれにはちょっと首肯できん部分もあるんじゃよ。例えば荊州牧となった劉表も同じ魯の恭王の子孫にあたるんじゃが、こちらは王族としての記述はほとんどされておらん。

一方劉焉に関しては王族と言うことが書かれ、また職歴を見ていくと、

中郎、洛陽令、冀州刺史、南陽太守、宗正、太常と歴任しておるんじゃ。

この内重要なのは宗正と太常だな。どちらも皇室所縁の役職だ。

そうじゃな、宗正は皇室親族を管轄し、庶嫡の序列・遠近を定めることを生業としておる。また太常は天子の宗廟の祭礼を司る役職なんじゃよ。

どちらも後漢皇族に近い人物でなければ、なかなかなれないと思うんじゃよ。そう考えると劉焉には後漢皇族の地も流れていたのではないかのう。

もちろんあまりそれが目立つと、劉備にとっては都合がよろしくない、と陳寿が考えたのかどうかは不明じゃな。じゃが高島俊男氏も著書『三国志 きらめく群像』で劉焉・劉璋の祖先に関して似たようなことを言及しておるのは興味深い話じゃのう。

劉焉の野望

さて、後漢の政治が乱れ衰え、王室が多難であることを見た劉焉は次のように意見を具申するんじゃよ。

「刺史や太守は賄賂で官位に就き、民を虐げ、その結果朝廷への離反を招いております。清廉の評判高い重臣を選んで、地方の長官とし、国内を鎮定すべきだと存じます。」

この時の劉焉はどちらかと言えば、世の混乱を避けて隠棲したい、と言う思いがあったようなんじゃ。

じゃが、この献言がなかなか実施されないでいたんじゃよ。そうこうしていると今度は侍中の董扶が劉焉に悪魔のささやきをしたんじゃよ。

「都は今まさに乱れんとしており、益州の分野(星宿)には天子の気がございます。」

これを聞いて劉焉は益州へと気持ちが大きく動くとともに、大いなる野心が頭をもたげるようになったんじゃよ。

丁度益州刺史の郤倹の課する租税がでたらめであり、流言飛語が遠方まで聞こえ渡り、そのため、劉焉のかねての計画は実現を見ることとなったんじゃよ。

劉焉は地方に出て、監軍使者となり、益州の牧を兼務し、陽城侯に封ぜられて、郤倹を逮捕し取り調べに当たることとなったんじゃよ。

『漢霊帝紀』によると、霊帝は劉焉を引見し、方策を宣示した上に賞賜を与え、益州刺史任命の詔勅を下すんじゃ。

「前刺史の劉雋、郤倹はいずれも貪婪(どんらん)・放埓(ほうらつ)・賄賂を受け取り、でたらめを極めていた。

民は生活を楽しむこともできず、怨嗟(えんさ)の声が野に満ち満ちている。

劉焉よ、汝は益州に到着するや直ちに彼らを逮捕して法を施行し、万民に示せ。このことを人に洩らすな。腫瘍がつぶれれば、国にとって災難をもたらすことになる。」

さて、霊帝のお墨付きを戴いた劉焉は勇躍益州へと向かうんじゃが、ここでトラブルが発生するんじゃよ。

戦乱の世であったためか、道路が通じなくなっており、仕方なく荊州東部に留まることとなったんじゃよ。

自分も何度か遠征の最中、途切れた道は何度も見てきた、道なき道を切り開き、軍が通れるようにするのは骨が折れる仕事だったぞ。

劉焉の場合は軍を率いておる訳ではなかったろうが、それでも寸断した道を通るのは相当の難儀であったろうな。さて、まだ劉焉が益州に入ったわけではないが、丁度キリの良いところじゃから、今回はここまでとしようかのう。良ければ次もまた見てくだされ尉。

 

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