さて、今回は射援の紹介じゃな。字は文雄、生没年は不明じゃな。あまりメジャーとは言えんが、蜀の重要なポジションについておった人物なんじゃよ。
さて、今回は射援の紹介じゃ。
どうも、張郃だ。ふむ、謝一族と同族と言われていた射氏の一人か。彼も当時は結構な名声があったはずだがな。
演義では見た記憶が余りありませんね。そんなに優秀な人だったのでしょうか。
そうじゃな、その辺りを見ていくとしようかのう。
人物紹介
蜀志『先主伝』の裴松之注『三輔決録注』によると、射援は字を文雄と言い、元々は扶風郡の人だったんじゃ。先祖は北地郡の謝氏と同族だったんじゃが、謝服と言う人物が将軍になって出征の際、天子が謝服と言うのを【謝罪し服従する】という意味で縁起が悪いと考え「射」と改めさせ、それ以降それを姓とするようになったんじゃよ。
後に献帝の初年に三輔が飢饉によって混乱したので、南方の蜀に入り、劉璋に身を寄せるようになった、とあるんじゃ。
献帝の初年と言うと時期的にはまだ劉焉時代のはずだから、ここで劉璋の名前が出てくるのには多少違和感を感じるな。それとも劉璋時代までは在野に身を潜めていたのだろうか。
さて、この射援だが若い時から非常に名声が高く、大尉の皇甫嵩から才能を評価されて娘婿となったほどだったんじゃよ。
ここで皇甫嵩殿の名前が出てくるのは凄いな。世が世ならもっと名声を博していたかもしれんな。
更に言うなら諸葛亮も射援のことを高く評価し、彼を(丞相)祭酒としたんじゃ。自身の参謀と言ったとこじゃな。更に後に従事中郎・軍議中郎将になったと言うんじゃ。
立場としては副参謀と言ったところじゃろうか。皇甫嵩にも認められたように見事な知略を持ち合わせておった、と言えるのではなかろうか。
射援は劉備が皇帝になる時の上奏文の作成メンバーにも名前を連ねておるんじゃが、在官中に亡くなった、とあるので221年からほどなくして亡くなったのではなかろうか。さて、続けて能力評価と行こうかの。彼は鄭問三国志以外の二作品に登場じゃな。
能力評価
射援は皇甫嵩や諸葛亮から非常に高い評価を受け、丞相府では参謀職であったことから知謀を高めの評価としたんじゃよ。
じゃが、評判以外の実績が少ないため、評価としては少し抑え目とさせてもらったんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、射援の能力評価じゃな。
これは評価が結構分かれているか。お主と三国志14は少し似ているか。
三国志14は政治が高いですから、やはりちょっと違いますね。
そうじゃなわしは参謀として評価したが、中郎将じゃと普通に武官の役割でもあるから、天舞さんはその辺りを読み取ったんじゃろうからな。
名声のみだと評価は難しい、まあ軍を率いての実勢がない以上、お主の評価で構わないのではないかな。
うむ、まあそこまで大きくは外れてないと、考えておくぞい。さて、射援の紹介はここまでじゃが、如何じゃったろうか。良ければ次もよろしく頼むぞい。
よし、今日は終わりだな、俺も一旦帰るか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。