さて、今回は射堅の紹介じゃな。字は文固、生没年は不明じゃな。かれは射援と共に蜀を支えた人物じゃな。それにしても名と字が分かり易くマッチしておるのう。
さて、今回は射堅の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。ふむ、兄弟そろって出てきたわけだな。
そう言えば字の「文」が共通ですものね。と言うことは射堅もかなり優秀と言うことですか。
うむ、現代の知名度は低いが、当時は二人とも名声の高かった兄弟と言えるじゃろうな。
人物紹介
蜀志『先主伝』の裴松之注『三輔決録注』によると、射堅は字を文固と言っておったんじゃ、出身地は射援と同じで、射援の兄が射堅だったんじゃ。
射堅は若くして誉れ高く、三公の府に招聘され、黄門侍郎となったんじゃよ。
若くして三公の府に招聘されたと言うのはかなりの才能があったのであろう、記録が少ないのが残念だな。
じゃがこの時期、三輔が飢饉によって混乱したので、射堅は官を去り、弟射援と共に南方蜀に入り、劉璋に身を寄せたんじゃよ。
久しぶりに名前が出てきたが、三輔とは京兆尹、右扶風、左馮翊のことを指す。丁度191年頃で言うと、董卓が支配していた地域が該当するな。
劉璋時代は射堅は長史に任じられたんじゃが、これは将軍の属官として文治向きの仕事をやっておった、と言うことじゃろうな。
更に劉備が蜀に入って後は劉備の下で広漢・蜀郡の太守に任じられた、とのことなんじゃ。
いきなり郡太守に任じられている辺り、射援同様、才能の煌きを感じさせるんじゃ。じゃが、それ以降に彼の名前は出てこないことから、程なく亡くなったと思われるんじゃ。さて、続けて能力評価と行こうかの。彼も鄭問三国志以外の二作品に登場じゃな。
能力評価
射堅は三公府から劉璋政権下を経て、劉備の時代まで文治面の役割を一貫して担っていたことから、政治能力を一番高く評価したんじゃよ。
じゃが、彼も名声以外の実績が少ないため、評価としては少し抑え目とさせてもらったんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、射堅の能力評価じゃな。
ふむ、天舞三国志はやや辛目な評価になっているんだな。
射援と比べても総合的にちょっと抑え目な感じになっていますね。
評判としては両者とも非常に高かったと思うんじゃがな。じゃがまあ実績重視なら抑えられてしまうのかのう。
まあ、お主の評価も軍事面はもう少し抑えめでも良かったかもしれないな。
そう言う意味では三国志14の評価が一番妥当な感じなのかもしれんのう。さて、射堅の紹介はここまでじゃが、如何じゃったろうか。良ければ次もよろしく頼むぞい。
よし、今日は終わりだな、俺も一旦帰るか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。